ぶどう酒の奥義

(ヨハネの福音書2:1-11)   2001年1月14日(日)
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序論

 テレビの正月番組には、多くのマジック番組が放送され、多くの人々の目をひきつけます。マジックは本当ではありません。ヨハネの福音書にはイエス様が多くの奇蹟を行い、多くのユダヤ人がその奇蹟を目撃しています。11節で奇蹟を「しるし」とも言っています。イエス様はご自身が行ったしるし、わざをとおして、わたしが何者であるかを知りなさいと言われます。

1.

 ヨハネの福音書はイエス様が行った七つの奇蹟を記しています。第一の奇蹟が今日の聖書個所で、すなわち水瓶の水をぶどう酒にかえる奇蹟です。水をぶどう酒に変えるこのしるしは、第一のしるしですから特に大事です。ヨハネに記される奇蹟は七つで、第一がこの個所で、第二が役人の息子のいやし(4:43-54)、第三がベテスダの池での病人のいやし(5:1-18)、第四が五千人の給食(6:1-15)、第五がイエスがガリラヤ湖上を歩かれる(6:16-21)、第六が生まれつきの盲人をいやす(9:1-41)、第七がラザロの復活です(11:1-46)。第一と第七の奇蹟とを考えるとイエス様が何者かが分かります。
 水がぶどう酒に変わる奇蹟は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。ヨハネ一章3節に「すべてのものは、この方によって造られた。」とあり、イエス様が創造主であると記しています。この奇蹟はイエス様の創造主であることを教える出来事です。罪におちた人をもう一度造りなおす回復のわざ、再創造の働きが二章から見えてきます。この奇蹟は、公の働きを始めて七日目すなわち安息の日にあたるその日に行われました。安息日は単なる休みの日ではなく新しい創造の行われる日です。安息と出エジプトの感謝の日です。イエス様は、水をぶどう酒に変えたように、水のような人を造りかえて、ぶどう酒のような人に再創造するために、この世界に来たのです。イエス様は安息日の戒めを故意に破ります。五章のベテスダの池のいやしの奇蹟も、九章の盲人のいやしの奇蹟も安息日に行われます。安息日には決して働かないというユダヤの大事な戒めを破ることも大きな原因で、イエス様は命を狙われることになります。イエス様は、ただ安息を守ることが、この日を守ることではなく、神様の思いを実現することの大切さを教えるためにご自身がこの戒めを破られました。ぶどう酒に変えられた水とその水を入れた瓶は、ユダヤ人のきよめのしきたりにより備えられていたものでした。ユダヤ人はよく手を洗いました。それはきよめのためでした。きよめについての律法主義です。イエス様はそんなことではきよめられない、神の民とはされないと言います。イエス様と12弟子はどこででも眠り、手を洗わずに食事をしました。そのために、汚れた者として非難されました。イエス様は言われます、口から入るものによって汚れるのでなく、口から出るものによって汚れるのだと。イエス様はそのきよめのしきたりの水をぶどう酒に変えます。この意味は、しきたり、すなわち律法主義のきよめの水によってはきよめられないこと、律法主義のむなしさを示しています。人はキリストによって造りかえられなければ神のものになれないことを教えています。

2.花婿であるイエス

 何故、第一の奇蹟が行われた場所が結婚式だったのでしょうか。旧約聖書では神と人間の関係を、神を夫、イスラエルを妻に喩えています。イスラエルを他の神のもとに行く姦淫、不品行の妻と呼んでいます。このことを理解しないとこの奇蹟を理解することは出来ません。神から命ぜられ,預言者ホセアは不貞の女ゴメルと結婚します。ゴメルは姦淫の子らを生みます。そしてゴメルは他の男のところに行き、ついにはどん底の生活におちます。神の命令によりそのゴメルをホセアは贖い出します。神は言います、実に神である私と妻であるイスラエルの関係は、あなたホセアとゴメルの関係そのものであると。また、イエス様とイスラエルの民衆の本来あるべき関係を、バプテスマのヨハネは「花嫁を迎えるものは花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けている友人は花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びに満たされているのです。」(ヨハネ3:29)と語っています。 花嫁はイスラエル、花婿はイエス様です。マタイ二五章で10人の花嫁がともし火をもって花婿を待っています。唯一の花婿キリスト、メシアを待ち望むまことのイスラエル、清い花嫁のすがたがあります。だからキリスト教は他の宗教と一緒に信じることが出来ません。ぶどう酒を持ってくるのは本当の花婿です。「彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う」(創世記49:11)。これは、ユダ部族をとおしてメシヤがくることの預言です。「彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、…主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない」(エレミヤ31:12)。ぶどう酒が豊かになるとき、メシヤが来ます。
 ヨハネ二章9節のこの宴会の世話役はぶどう酒の味をききわけますが、水をぶどう酒に変えたイエス様がどのようなお方かを見分けることは出来ませんでした。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。」キリストの新しい恵みの福音は古い律法主義の皮袋を張裂いてしまいます。律法主義を恵みの信仰にかえよ。私の人生もキリストによって、水からぶどう酒にかえられたいものです。人の力で頑張ればできるというのが律法主義です。水をぶどう酒にかえるのはイエス様の言葉に従ったときだけおきることです。しかし、奇蹟だけに目を奪われると神様のまことのメッセージを見失います。

3.信仰で悟る奥義の世界

 この奇蹟を見たのは、言葉にしたがって手伝った人々です。しかし、信じたのは弟子達です。奇蹟は見たとしても、信じることに必ずしもつながるものではありません。カペナウムで多くの奇蹟が行われましたが信じる者は一人もいませんでした。奇蹟が人を信仰にむすびつけるのではありません。一つの奇蹟を見ればさらに奇蹟を求めます。二章13節から25節の個所で、イエス様の宮きよめの出来事が記されています。若いイエスに宮きよめの権威があるのか、あるならどんなしるしを見せて納得させてくれるのかとユダヤ人たちは詰め寄ります。イエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、それを三日で建てよう。」と言い、目に見えるしるしを行うことはありませんでした。この神殿とは何を意味していますか。十字架に贖いの死を遂げ、三日目によみがえられたイエス様ご自身を指しています。「イエスが死人の中よりよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた」(ヨハネ2:22) 。聖書のことばを信じる者が本当の信仰者です。真のしるしであるイエス様の贖いの十字架の死と復活を記した聖書のことばを信じることがまことの信仰者です。
 イエス様は、人の人生を造りかえてくださる創造主です。この方こそ、わたしが一生、一緒に歩むべき花婿です。

(文章化:千葉秀悦)

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