安息日と主イエス
(ヨハネの福音書5:1-18) 2001年2月11日(日)
[an error occurred while processing this directive]人
誤解というのものは、人との関係をとても困らせます。ヨーロッパのある刑務所にいる犯罪人は、毎週金曜の食事を取りません。ある時、神父さんが尋ねてみると、「仕事は泥棒ですが、神に断食して祈るのは信仰です。」と答えました。このように、信仰に対して自分の仕事であるかのように誤解している人がいるかもしれません。聖書の中の人々にも、信仰に対し誤解はありました。自分なりの信仰を固定化して、正しいかどうか、それが真実であるかどうか省みない人がいます。
ヨハネの福音書5章では、イエス様が38年間も病気にかかっていた人をいやされます。彼は、イエス様が誰であるかを知りませんでしたが、信仰告白をしない者にも、イエス様はいやしの働きをされました。21節「父が死人を生かしいのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」イエス・キリストが、神としての権限を持っておられることが示されています。人間達の力では、全くどうすることもできなかった病人を、イエス様は『取り上げて歩け』という一つの言葉でいやすことができました。主のことばが与えられるなら、心の病であれ、体の病であれ、精神的な病であれ、人生の多くの課題であっても、キリスト・イエスによって、いやされることを信じましょう。
しかし、その日は安息日だったため、イエス様に対し、律法学者達が対立する問題が生じます。彼らは、安息日に対するスピリットが失われ、ミシュナー法典などの決まりだけをしっかり守っていました。安息日を下さった神様の第一番目の意味は、出エジプト記20章のモーセの十戒の中に説明されています。神様がすべてのものを創造されたことを覚え、記念する日です。第二番目の意味は、申命記5:12、15節。自分達の救いを覚えることです。この二つのことが安息日を覚えるスピリットです。ユダヤ人のように、スピリットが薄れ、日時だけを守る安息日ではいけません。
14節でイエス様は、彼に「もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」と言われました。悪いことが起こるとありますが、それは、最後の日の神からのさばきという未来的なことです。
イエス様は、安息日にこのようなことをなさいました。19節を見ると、それはイエス様が御父神様のなさることと同じように行われたことが分かります。神様からの権威によって行いました。また、22節からは、人をさばく(分ける)権威を与えられていることが分かります。ご自分が安息日の主であることの証言をしているのは、バプテスマのヨハネと、御自身のわざ(奇蹟)と旧約聖書ですと言われます。
イエス様は、「起きて床をたたんで歩きなさい。」と言われました。私達の床は何でしょうか。私が頼っているものは何でしょうか。お金や権力、人間、知識など、自分が頼っているものは、自分をいやしてくれません。キリストのことば以外には、私達をいやしてくれるものはないというのが聖書のメッセージです。規則やルールに縛られているのもが信仰ではない、信仰の本当のスピリットを取り戻しなさい、というのが、この聖書の訴えです。主イエス様には不可能なことはありません。私達も「主よ、私に声をかけてください。」と祈りましょう。
(文章化:浦田望)
趙 南洙 説教集に戻る
last modified at 2001.3.30
(C) 2001 Mission Japan