行ける水の川が流れる人生
(ヨハネの福音書7:37-39) 2001年2月25日(日)
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今日は、ヨハネ7章からのメッセージです。7章で一番大切なのは37〜39節です。仮庵の祭りで話されたことです。イエス様は、時に合わせて業をされていました。話すことも業を行うことも同じでした。仮庵の祭りは、三大祭りの一つで、男性はほとんど神殿に集まります。ユダヤ人宗教指導者は、イエスを神をけがすものとして、殺そうとしていました。神殿に行くのは危険でしたが、どうしてもユダヤ人にしっかり教えておかなければいけないと相当な覚悟をして行かれたのです。
仮庵の祭りは40年間の荒野の生活が守られたことを記念して行われた祭りです。今の暦でいえば9月から10月の間で、収穫の時期に当たり、収穫感謝祭とも言われています。荒野は、ほんの少しの草や木があるだけで、ふつうは人は生きていけません。神様が養って下さったからイスラエルの民は40年間も暮らしてこれたのです。その荒野で一番大切なのは水です。祭りの間、祭司たちはシロアムの池から水をくんできて、祭壇に水をかけ、いけにえを献げ、イザヤ12:3の賛美をします。水を与えて下さった神様への礼拝です。その祭りの終わりの日(8日目)には、聖会を行います。大勢の人が集まっているそのそばで、イエス様は37〜39節の言葉を大きな声で言われたのです。この話を聞いたユダヤ人は、水と言われて聖書(旧約)の言葉をすぐ思い浮かべます。ゼカリヤ14:8のことであり、水が東へ(死海の方へ)西へ(地中海の方へ)流れる。神殿からわき出る水がイスラエルから世界中にあふれ、世界の人々がその水を飲んで生きる。その大もとはエルサレム。選ばれた自分たちであるというプライドがユダヤ人にはありました。そのユダヤ人に向かって、イエス様は37〜39節の言葉を話されたのです。神殿からと考えているユダヤ人に、その水はわたしから出ると、わたしのもとに来て飲みなさいと大声で叫んだのです。この水を飲むのは誰でしょうか。それは、渇いている人です。渇きを覚えなければ飲めません。
渇きには3種類あります。(1)体の渇き、(2)精神的渇き、(3)霊的渇きです。霊的渇きとは、全能なる神様の前に覚える渇きのことです。イエス様はこの霊的な渇きのことを言っておられます。自分はダメだと分かるが、解決する方法が分かっても出来ないことに対する渇き。自分の中にその力がわいてこない渇きがあります。パウロもローマ書7章で渇きを覚えて叫んでいます。神様を知っている人が渇きを覚えているのです。
信仰は真理を学び、悟るだけでは、力が出てきません。悟ったみことばを成し遂げる力がなければ、力ある信仰生活を送ることは出来ません。真理を理解する信仰と力ある信仰は別です。そういう意味で、信仰を理解している人が霊的に渇いているのです。説教を聞けば聞くほど、心の苦しさを感じるのは、霊的に渇いている証拠です。福音を聞き、罪を認め、悔い改めているけれども、信仰生活に疲れを覚えている。これは霊的に渇いているのです。キリストがいやだとか神様がいやだとか言うのではないが、何か信仰生活に力がない。疲れる。これは霊的に渇いているのです。渇いているときに奉仕を任されると、喜びがなく、やればやる程疲れてしまいます。体が疲れるほどの奉仕ではないのだけれど、霊的に渇いているから、精神的に疲れ、体も一緒に疲れてしまうのです。このような渇きを感じているでしょうか。イエス様は、そのような人に、大声で「だれでもわたしのもとに来て飲みなさい。」と言われました。
では、どうすればこの水を飲めるでしょうか。イエス様は「わたしのもとに来なさい」と言われました。これは、すでに信じている人に語っている言葉です。信じている人に対してイエス様のところに行くとはどういうことなのでしょう。全人格的にイエス様と一緒になることです。一緒になるとは、自我を捨て、イエス様と二人三脚で歩くということです。二人三脚では一人勝手に歩くと倒れてしまいます。このようにイエス様のところに行くと、行ける水を飲むことが出来ます。
生ける水とは聖霊のことです。ヨハネは39節でわかりやすく説明しています。では、どうして聖霊に満たされないのでしょう。それは、イエス様を信じているが、十字架に自我を捨てられないからです。自分を捨てること、それが聖霊に満たされる秘訣です。生ける水(聖霊)は私達に与えられた祝福の恵みです。しかし、それを与えて下さったイエス様は、十字架の死という尊い価を払われているのです。自我を十字架につけて、イエス様と一緒に行く、イエス様に縛られることは人間にとって幸福な人生を歩むことです。なぜなら、その方が、生ける水によって豊かに生かして下さるからです。
エゼキエル47章では、エルサレムの神殿から水が流れ出て大きく深くなり渡れない程になったと記されています。神殿から水が出、その水でみんな生きることが出来ます。この神殿は命の源です。イエス様が来られてから、人の心の内に住まわれ生かされています。イエス様が十字架につけられてからは御霊様が与えられ豊かになります。クリスチャンの生き方がこれです。
聖霊に満たされると、自分自身が変わります。信仰を告白して意識が変わりますが、これは出発点です。その後、生ける水である聖霊が与えられ変えられていくのです。感動が与えられ、体験させられ、生き方が変わります。変わっていくことが生ける水である聖霊の働きです。皆さんが拒まない限り、満たされ、まわりの人に影響を与えるのです。皆さんによってまわりの人が生きるのです。
聖書は一貫して私達が生けるわき水によって、聖霊によって満たされることを望んでいます。信仰は頭で理解したり、討論するものではなく、もう一段上である、生ける水である聖霊に満たされることを常に求めて下さい。イエス様のところに行って下さい。信仰らしさ、聖書的な信仰らしさを是非経験して下さい。
(文章化:千葉澄子)
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