わたしのことを信じなければ
(ヨハネの福音書8:12-30) 2001年3月4日(日)
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何かを誤解したばかりに、又、何かを知らなかったばかりに、間違いだらけの行為をしてしまったという経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。誤解が人間関係の中で生じると、お互いの信頼関係が悪化するだけでなく、もしそこに利害が絡めば争いとなり、人の血が流されることにもなりかねません。
「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません」(8:19)
イエスを誤解し、イエスが神であることを知ることが出来なかった当時の「神の信仰者達」は、神であるイエスを迫害し続けたばかりか、遂には神を最も残酷で恥辱的な十字架刑によって殺害するという、仰天すべき大罪を犯してしまうのです。
本章では、前半の姦淫の場で捕らわれた女の出来事と共に、人間の本当の罪とは何かについてが語られます。そして現代の私達キリスト者が、果たして神である主を真に知り得ているかを厳しく問われる章でもあります。
またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。」(7:41)
イエスのみもとには多くの人が集まりましたが、神の信仰者であるべき宗教家をはじめ多くの人が、寒村に住む貧しい者という偏見のもとに、イエスを誤解しました。
マラキ以降四百年もの間、神の言葉が与えられず、戒められることもなかったユダヤの宗教指導者達の信仰心は、律法と預言者の書よりも、当時持て囃されていた黙示文学を愛し、体面を保つために律法を都合良く改竄するまでに堕落していました。そして益々増長する選民意識と、自分好みの宗教的熱心さの中で神の声も人の声も聞き分けられない状態にさせられていました。
福音書の中で、イエスは全て律法と預言者の書に基づいて語られていますが、今や肉の目と肉の耳を持ち、偏見と誤解にねたみまでが加わったユダヤ人宗教家達の心には、霊的恵みの御言葉は届きませんでした。
あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(8:7)
ローマ軍によって当然責任を問われ断罪されることになる、最初に石を投げる者の命にまで心痛められ、至上の愛をもって語られたイエスのこの言葉に、陰謀者達も心を打たれます。
不信仰者でさえ、思わず心の中で身を正すと言われているこの言葉は、私達全ての人が他人を裁くことなど出来ない同じ罪人であることを明らかにしています。
陰謀に加わった者たちは、犯した罪の数の多い年長者から一人ずつ立ち去りますが、悔い改めたとは書かれていません。
二千年の時を越え、今なお私達の心を強く打つこの御言葉も、神に対して憎しみを持った人たちには、一瞬の閃光でしかありません。
わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。(8:11)
囚人の前で罪を暴かれて辱められた女性は、心に大きな傷を負ったかに見えます。しかし主イエスの御前にその罪が明らかにされた故に、この女性は主イエスから直接赦しの言葉を頂き、新生して新しい世界を歩み始めるのです。そして主のみ業の証しとして、永遠の書の中に記され、凛然と輝き続ける大いなる幸運を手にしたのです。
それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。(8:24)
主の前に罪が明らかにされた女性に比べ、裁こうとしたユダヤ人達の全ての罪はそれぞれの人の心の内に隠されたままです。
ここでユダヤ人達は自らの全ての罪を神の前に告白し永遠の霊的命を得るか、それとも全ての罪を抱いたまま霊的な死の道を歩むことになるのか、真の生か死かの選択を迫られます。
もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。(8:24)
悔い改めの勧告に続き、イエスは究極の諭しを告げられます。この時に語られた「わたし」という言葉は、出エジプト記3:14にある「わたしはある」という、創造主である神の御名そのものです。
解釈を転ずれば、全ての罪を隠さずに告白し、悔い改めが出来ないのは、真にイエスを信じていないからに他ならないということになります。
そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」(8:25)
これが神であるイエスからの直接の説教に接したユダヤ人宗教家達の最終的な回答でした。ユダヤ人の大半は、二千年後の現在でもイエスが神であることを認めようとはしません。しかし果たして私達は不信仰なこれらユダヤ人達に向かって心の中で批判の石を投げることが出来るでしょうか。例えば私達は全ての罪を告白などしているのでしょうか。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)
神は私達に絶えず悔い改めの機会を与えて下さっています。祈りや学びや交わりなどの中で、神の戒めや叱責を感じる時。御言葉が心に残り負担を感じる時。御言葉に接したときに喜びではなく不安な感覚に襲われる時。これらは皆聖霊による罪の告白への神のご干渉と思うべきなのです。
罪の告白を恥と思うなら、主が私達の罪のために死んで下さったときに受けられた十字架刑の恥ずかしさを覚えるべきでしょう。裸にされた主は衆人観衆の前で苦しみながら晒し者にされたのです。
恥と思っても神の前に全ての罪を告白することが生きる道であり、また真に自由になる道なのです。
福音はキリストを信じなかったユダヤの民を離れたかのように、異邦人の中へと広がり、主の御言葉は聖書となって私達一人一人の手元にあります。
キリストへの確かな信仰。そして日々の悔い改め。神が求められているものも、私達が心から求めなければならないものも、罪により失われた、人間と神の信頼関係なのではないでしょうか。
二千年前のあの日も、そして今日も、主は私達に語りかけられます。「わたしを信じなければ。」やさしく、そして厳しく。
(文章化:柴田康正)
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