あなたは主の羊なのか?
(ヨハネの福音書10:1-18) 2001年3月18日(日)
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先週はヨハネ9章からであった。生まれつきの盲人がイエスの癒しによってシロアムの池で目を洗うと見えるようになり、癒された盲人が証をしたが、まわりの人たちはこのような奇蹟を見ても、聞いても信じなかった。このように疑い深い人たちが描かれていた。奇蹟を見ているのに信じることのできない人が多いのは証が足りないのではない。心が疑い深いということだ。皆さんのまわりはどうだろうか?何を聞いても、何を見ても信じない人たちがたくさんいるのではないだろうか。今日、何故このように疑い深くなってしまったのか?まわりの人たちはいったいどういう人たちだったのか。
この人たちは、モ−セの律法を守ってはきたが、神の戒め、預言を正しく理解していなかった。律法を誤解していた人たちだった。宗教熱狂主義、観念主義は他のことを聞こうともしない。ここに宗教の恐ろしさがあり、人間の意識を頑ななものにしてしまう。このように素直に聞くことのできない人たちのことをイエスはヨハネ10章で一言で片づけている。「主イエス・キリストの羊ではないから」と・・・
今日のテキストでは弱く、迷いやすい人間を羊にたとえ、牧者であるイエスについて行く羊、ついて行かない羊を説明している。ここで羊の習性を理解しなければならない。
第一に、羊は自分の牧者の声を聞き分ける。羊は自分では何もできない。牧者がいないと生きられない。ここに羊の素晴らしさが有り、素直さがある。弱い迷いやすい人間が素直に牧者に従う。まさに主イエス・キリストの羊と重なり、信仰の始まりとなる。世の終わりが近づくにつれて神の声、真の声が非常に聞きづらい時代である。今こそ牧者であるイエス・キリストについて行く羊にならなければならない。
第二に羊は牧者を信頼している。素直に聞き従い、信頼してついてゆくことにより、私たちは変われる。
第三に羊は自分の牧者を良く知っている。牧者がどのような人柄なのか、どのように導いて下さるのか、そして命をかけて守って下さることを羊は良く知っている。しかし、このような羊の群れの近くに強盗や盗人がいる。盗人は正門から入らず、裏から、横から入ってくるのが特長である。教会の批判、悪口、神を冒涜する強盗や盗人が私たちの周りにはたくさんいる。弱い羊に襲いかかる盗人、羊の命を奪うために働くたくさんの妨害者たちである。信仰の盗人、信仰の強盗である。牧者と間違いやすい雇主もいる。牧者でない雇主は責任感がなく、狼が来ると羊の命を守るどころか逃げ出す。信仰成長を喜んでくれない雇主、羊のことは考えず自分のことだけを考える雇主がたくさんいる。私たちはそれに気づかず、良い牧者イエスに自分の命を預けずに、雇主のような人たちに命を預けてしまう。何故だろうか?
それは私たちがあまりにも良い牧者である主イエス・キリストを知らないからではないだろうか。良い牧者を知らないから雇主に騙されてしまう。
それでは良い牧者とはどのような方だろうか。
(1)良い牧者は羊に名前をつけて呼び出す。
私たちは個性がありそれぞれ性格も違う。その違いに合わせて声をかけて下さる。すべての人に合わせて声をかけて下さるのが主である。私たちが主の羊であるなら主は必ず声をかけて下さるのである。
(2)先頭に立って導く牧者。
雇主は命令ばかりだが、牧者は何もできない羊を先頭に立って導いて下さる。荒野でも主は先頭に立って導いて下さった。今の時代でも間違いなく先頭に立って導いて下る。
(3)牧者は羊の門(イエスはご自分をこのように説明された。)
門とは制限された区域、境界、保護される囲い、人生の門。私たち羊を盗人たち、妨害者たちの悪から守って下さる門なのである。
(4)主は「私がきたのは羊が命を得るため、人生を豊かにするため」と言われた。
私たちには求めるものがたくさんある。求めるものがある限り生きる希望となる。ここに信仰の基本がある。『求めるべきものは何か、それは命である。』
人間として必要なもの、それも命である。この命とは天の神が与えて下さるものである。
しかし、天の神より命が与えられるには、神と私たち羊との和解が必要だった。そのために牧者であるイエスが間に立って下さった。十字架にかかり自らの命を捨てて私たち羊の命を救いにきて下さったのである。
主は神の命令によって十字架にかかられたのではない、神との和解のために間に立って下さった。主は私たち羊のために、私たち羊が真の命を得るために喜んで尊い命を捧げて下さった。
私たちが罪を犯し悲しむのは誰か?私たちのために尊い命を捧げて下さった主である。私たちはどうするべきか、みことばに聞き従い歩むことである。それによって命が変わる、性格がかわるのである。まさに命の恵みである。
私たちは礼拝をどう受けるべきか、悔い改めるべきである。神の働きを感じ、心から涙しなくてはならない。
『私は主イエスについてゆく羊である。』
私たちは主の囲いの中にいる羊かどうか、良い牧者についている羊だろうか。
主は、み言葉を通して何を言っているか?何を語っているのか?
祈る。
(文章化:上村稔)
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