最も麗しいかおり
(ヨハネの福音書12:1-8) 2001年4月1日(日)
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一般的に、キリスト教は弱者の宗教と言われています。人々は、「教会は清貧であり、苦しむ人や弱者を救済するところであってほしい」と考えているように思われます。しかし、貧しい人々に施しをし、苦しんでいる人々を助けることがキリスト教の本質なのでしょうか?もしそうでないとしたなら、根本的なキリスト教の本質はどこにあるのか、今日のテキストから考えてみましょう。
ヨハネの福音書12章1節から8節を読むと、2つの価値観がぶつかっているのが分かります。イエス様は、十字架で死なれる1週間前にベタニヤに来られました。そこはイエス様が、死んだラザロをよみがえらせた町でした。町の人々は、イエス様とラザロのために晩餐を用意していたのです。ところが、その席で人々がびっくりするような出来事が起こりました。ラザロの妹のマリヤが、非常に高価なナルドの香油300グラムをイエス様の足に塗り、髪の毛でぬぐったのです。それは周囲の人々にとって、全く理解できない行動でした。イスカリオテ・ユダは彼女を叱って言いました。なぜ、こんなむだ使いをするのか!と。ここに2つの価値観が表われています。1つは、マリヤに見られる「自分の最高のものをイエス様に捧げよう!」という価値観と、もう1つは、イスカリオテ・ユダに見られる「そんなことより、貧しい人々にこそ施しをすべきだ!」という価値観です。さて、そのときイエス様はなんと言われたのでしょうか。7節、8節に書かれてある通り、マリヤの行動をかばい、支持されたのです。マルコの福音書14節9章には、「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と言われたと記されています。 それはある意味で、マリヤの行動自体が福音である、と言っておられるのです。言葉ではなく、アクションによる福音だと言われたのです。キリスト教の本質は、高価な香油を売って貧しい人々に施すだけでなく、マリヤのように、イエス様にすべてを注ぎ出すこと、イエス様にすべてを賭けることなのです。
では、なぜマリヤは高価な香油を注ぎ出したのでしょうか?なぜ、そのようなことが出来たのでしょうか。イエス様のみこころを知っていたのでしょうか。300グラムの香油は300デナリであり、約1年間の収入に当たります。マリヤはその香油をとても大事にしていました。当時、香油は死んだ人の遺体に塗りましたが、マリヤはラザロが死んだときでさえ、それを使いませんでした。それほどまでに大切にしていたものをイエス様の足に注ぎ出したのです。いったいいつ、そのような思いに変えられたのでしょう。11章においてラザロが死んだ時までは、マリヤはイエス様のことを、預言者で偉い先生、という程度にしか考えていませんでした。しかし「ラザロよ、出て来なさい」の一言でラザロをよみがえらせたイエス様の力を知って、「この方は、人間ではない。まさに創り主、神さまである!」と分かったのです。そのことが分かった時、マリヤの意識も変わりました。神であるイエスこそ、私の人生のすべてを導くことのできるお方である、という信仰が生まれたのです。そしてこの方が神であるなら、私は礼拝をすべきである、そして礼拝は自分の持っている最高のものを捧げることだ、という熱い思いが与えられたのです。それゆえ、自分が最も価値観を置いていたものをイエス様に捧げることが出来たのでした。
それに対しイスカリオテ・ユダの考えはどうだったでしょうか?一見、彼の言葉は説得力があるように思われます。それは、より一般的な考え方でした。しかし、彼の本音は別のところにあったのです。彼はお金の誘惑に落ちていたのであり、しかもその弱さを一度もイエス様に言おうとはしませんでした。外見はイエス様についていっているようであっても、心はそうではなかったのです。彼はその高価な香油が欲しかったのであり、裏側ではそのことを計算していたのです。同時に彼は、イエス様を礼拝する者を批判しました。それはイエス様のことを「単なる人間に過ぎず、私たちが礼拝すべき相手ではない」と間接的に言っていることと同じです。彼はイエス様についてはいても、イエス様がどういうお方であるか全く知らなかったのです。これほど悲しいことはありません。皆さんはいかがですか?
さて最後に、イエス様の反応について見てみましょう。7節をみると、イエス様はマリヤの行動を、ご自分の死を備える礼拝として受け止めておられたことがわかります。マリヤは十字架の深い奥義を知っていたわけではないと思いますが、その献身的行為が記念すべき礼拝として受け止められたのでした。11章でのラザロの復活、それに続く12章のマリヤの献身的礼拝は、結果的にキリスト・イエスの十字架を備える礼拝となったのです。信仰者は計算しません。なぜならイエス様は無限の方であり、私たちはその方の無限の愛を受けているからです。
私たちクリスチャンは、弱い人、苦しんでいる人に関心を持つべきですが、施しが真の福音ではありません。すべての苦しみの根本的な原因である罪からの解放、解決こそが真の福音であり、この福音のためなら命をも惜しまない人こそ真のクリスチャンなのです。
キリストには変えられません、というマリヤの価値観からあふれ出た最も麗しいかおり、その麗しいかおりを互いに放つ教会形成であればと願います。
(文章化:土門賀陽子)
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