神の主権

(詩篇25:1-5)   1999年1月10日(日)
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 神さまの導きに従うことには、クリスチャンにとってとても大切な意味がいくつか

あります。

 一つ目は、クリスチャンという存在は神さまを信じ、神さまに自分の人生を委ねて

いる人なので神さまの導きに従わなければ成り立たないからです。二つ目は、私達は

イエスを主と告白して救われ、クリスチャンになったので(ローマ10:9)、当然、

主なる神さまの導きに従うべきです。イエスさまは、「主よ、主よ。」と口だけで求

めるのではなく、みこころに従う者が天の御国に入る真のクリスチャンであると言わ

れました(マタイ7:21)。ですから、神さまの導きに従うべきです。三つ目は、神

さまは生きておられその時その時に語られ、示されますので、日々、みことばに耳を

傾け、よく聴き、導きに従うべきです。四つ目は、神さまのお考えや知恵が私たちよ

りはるかに優れておられますので、私たちはただへりくだって神さまのみを待ち望み、

従うべきです。神さまの導きに従うことこそ、私たちクリスチャンの幸せだからで

す。

 ダビデは、神さまの導きによく従った幸せな信仰者でした。よく知られている詩篇

23篇を見ますと、彼は羊飼いの仕事をしていた時、神さまの導きに対してよく学ぶこ

とが出来ました。イスラエルの荒野での羊は、一匹でも、あるいは群れになっても、

自ら道を探したり緑の牧場を探すことは出来ません。狼に襲われても、自分を守る力

は全くありません。羊にとってすべてを守り導いてくれる羊飼いは、まるで神さまの

ようでした。そこからダビデは学びました。「神さまは私の羊飼いです。」と告白し

たのです。

 ダビデだけではなく聖書に記されたあらゆる信仰者たちは、神さまの導きに従い、

証しをし、信仰に生きるというのがどういう意味であるのかを証ししています。結論

から申しますと、神さまの導きに従うのが霊性あるクリスチャンの生き方です。それ

では、神さまの導きに従うためには、どうすればよろしいのでしょうか。

一、神さまを自分の主と認め、従う姿勢が求められます。

 詩篇25篇1節で、ダビデは「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。」と

祈っています。「神さまを仰ぐ」という表現は、風に吹かれて揺れ動く、海の波のよ

うではなく、揺れ動かず、神さまのみ待ち望むという意味です。ここには、神さまを

自分の主として、すでに認めており、従おうとする姿勢が見えます。これは神の導き

を求める人にとってとても大切な姿勢です。

 実は、全能なる神さまはあらゆる力をお持ちの方なので、人間たちを強制的に押し

つけることも出来る方です。しかしヨハネの黙示録3章20節に書いてあるとおり、神

さまは人間の心をたたきながら、心を開いてくれる時まで待っていて導かれる人格的

なお方です。ですから、神さまの導きを求める人であるなら、自分の自由な意志さえ

捨てて、従うべきです。それで、イエスさまは弟子たちに言われました。「だれでも

わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたし

について来なさい。」(マタイ16:24)と。

 従うことは、自らの判断による行いではありません。従うとは、全く受け身的な姿

勢です。すべてを造られた全能なる神さまの導きに従うのは、受動的な姿勢以外、何

もいりません。そこには委ねる姿勢があります。信頼する姿勢があります。へりくだ

る姿勢があります。自分の過ちを告白し、どんな厳しい扱いでも神さまの導きに従う

なら受け入れますという姿勢があります。そこには何も人間に求められる条件はあり

ません。従う姿勢のみが、神さまの導きを見分けることが出来るのです。

 神さまの導きに従う時、多くの人々が注意すべき事は、疑うことです。ヤコブの手

紙1章6-8節に書いてあるように、疑う人は主から何かをいただけると思ってはいけま

せんし、そういうのは、二心のある人で、その歩む道の全てに安定を欠いた人です。

この疑いから邪魔されず、しっかり神さまの導きに従うためには、どうしたらよいで

しょうか。

二、何よりも神さまが自分の人生の道を備え、導かれることを信じるべきです。

 詩篇25篇2節で、ダビデは祈りました。「わが神。私は、あなたに信頼いたします。」

この信頼は「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私

のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰

の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられ

ますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:2-4)と

告白していた彼の信仰、すなわち自分の人生に対する神さまの備えと導きに対する信

仰から生まれたものです。

 ヨハネの福音書10章3-4節でイエスさまは、羊である信じる者と導く羊飼いである

ご自分との関係に対して言われました。「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き

分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き

出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼につ

いて行きます。」この教えは、主の導きは問題が生じた後に追いかける導きではなく、

何かが起きる前から先頭に立って導かれることを語っています。

 続けて11節を見ますと、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのち

を捨てます。」と言われましたが、これはイエスさまがご自分の命をかけて私たちを

導かれることを示しています。これこそ神さまの導きに信頼出来ることを示す教えで

す。

 実際、イエスさまもマタイの福音書4章1節を見ると、「悪魔の試みを受けるため、

御霊に導かれて荒野に上って行かれ」ました。御父の導きを信頼していたので、荒野

での悪魔の試みを受けることにさえ、従ったわけです。

 これを確かに証言するみことばがあります。ヨハネの福音書5章30節です。「わた

しは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。

そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを

遣わした方のみこころを求めるからです。」またヨハネの福音書12章49節で「わたし

は、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を

言い、何を話すべきかをお命じになりました。」これらのことばは、イエスさまが御

父をどの程度信頼して、御父の導きに従っていたかを示すことばです。

 そして、イエスさまが祈りを教えて下さる時も、神さまの導きを信頼して祈ること

を強調されました。マタイの福音書6章7-8節です。「また、祈るとき、異邦人のよう

に同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれる

と思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる

神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるから

です。」また同じところの31-32節です。「そういうわけだから、何を食べるか、何

を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、

異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみな

あなたがたに必要であることを知っておられます。」このように祈りに関する教えの

中でも、すべてを知っておられる神さまがしっかりと導いておられることを信頼して

祈るべきであると教えられました。

 多くの人々が神さまに自分の思いや願いを求める祈りばかりをしていると思います

が、正しい祈りは、自分の思いや願いより、すべてを知って、導いておられる神さま

の導きを求める祈りです。

 キリスト教の信仰は、自分の努力によって自分で探す自己修行ではありません。純

粋な信仰者であれば、神さまの導きを見分け、従うことが出来ます。旧約の族長アブ

ラハムは、どこに行くのかも知らないのに、神さまの導きに従いました。ある意味で

当時のアブラハムは、神さまに対する信仰が不十分であったと思います。彼が最初、

神さまに導かれた時は創世記11章の終わりごろです。ところが彼の信仰が神様によっ

て義と認められたのは17章のころです。ここで学ぶことは、信仰は自分の目で先に見

せてもらうことではなく、神さまの導きに従うことです。導きに従えば信仰者になり

ます。

 兄たちによって、エジプトに売られたヨセフは、またポティファルの下で厳しい誘

惑による試練を受けます。十分弁明の余地はありましたが、ヨセフは黙って牢獄の生

活をします。環境や人に頼らずただ黙るのは、彼の弱さではなく、神さまの導きを待

ち望むからでした。かれは小さいころから自分の人生に対する神さまの導きを夢で見

て、信頼していたから、ただ黙って待ち望むことが出来ました。神さまの時が満ちた

後、かれはエジプトの総理大臣に導かれます(創世記45:5、50:19-20)。

 しかし、神さまの導きに正しく従わなかったヤコブは、自己意志のために苦しい人

生を過ごします。ヤコブは神さまの導きよりも自分の意志で父イサクをだまし、兄エ

サウにあたる祝福を奪い取ります。しかしそのことで兄と敵の関係になり、自分の家

族から逃げなければなりませんでした。母の兄であるラバンのところに行って暮らし

ますが、そこでラバンの次女であるラケルに恋して7年間、ラバンのために働きます。

しかし初夜から朝になって、見ると、ラケルではなく長女レアでした。彼は父イサク

をだましたように自分もラバンにだまされてしまいました。またやコブは、自己意志

が強く負けずに、続けて7年間を働いて、やっとラケルを妻として迎えます。しかし、

皆さん。聖書のことを知っている方はお分かりかと思いますが、ヤコブの切なる求め

であるラケルとの結婚より、だまされたように見えますが、長女レアとの結婚が神様

の計画でした。何故でしょうか。ヤコブはレアとの間にユダという子供を生み、その

ユダの子孫からダビデが生まれ、ダビデの家系からイエス・キリストがお生まれにな

ったのです。

 ヤコブは神さまに導かれるより、自己意志による人生でした。非常に積極的な人生

で負けるのが嫌いな現代人のモデルのようです。ラバンの家で「ベテルに上れ。」と

神さまの導きがありましたが、従いませんでした。個性の強い人生です。1ヶ月で行

けるベテルまでの道に20年もかけてしまいます。神の導きに従わなかった彼の人生は

苦しみと悲しみ、そしてだまされ、家族との喧嘩を繰り返す人生でした。

三、神さまの導きに従うためには、人間主義思想に注意すべきです。

 ヤコブの失敗から十分学ぶべきだと思います。私たちの信仰には、いろんな人間主

義影響され、知らないうちに、人間主義が聖書信仰であるようにだまされたまま続け

ているような気がします。

 戦前、アメリカでは厳しい経済恐慌の時期がありましたが、その時、経済復興のた

めによく使われたことばが「使い捨ての消費こそ美徳である。」でした。消費が生産

を起こすという理論です。この考えは第二次世界大戦の時、もっと活かされ、積極的

な思考(Positive Thinking)という哲学的な流行語まで残します。何でも積極的に考

えるべきであるという考えです。決して悪い考えではありません。この考えによりア

メリカは、市場経済主義の繁栄を向かえ、今の世界を支配しているような気がします。

 ところがこの考えは、多くのキリスト教会にも影響を与え、教会の指導者にまで影

響を与えます。教会も市場経済主義に合わせた運営や結果を求める成長主義になりま

す。目に見えることで神の世界を判断してしまう過ちが増えていきます。同時にこれ

らを正当化するために、聖書の中から人間による積極的なアプローチを持ち出し、教

えることが増えていきます。従って、教会に来る会衆も市場経済による報いを求める

のが信仰であるかのように形成されていきます。

 戦後、いわばこのようなアメリカの福音主義の宣教師や教会の影響が日本と韓国に

大きな影響を与えます。この牧師にもそういう傾向にあると思います。そのような勉

強をしてきたからです。

 人間主義の哲学は、神さまの主権による導きに従うより、人間の積極性を励ましま

す。これは聖書信仰ではなく、人間の信念であり。やれば出来ると教えるマインドコ

ントロールです。もし、そういうやり方で何かの結果を出したとしても、それは聖書

による正しい信仰ではありません。

 福音書に沢山記されてありますが、イエスさまによって癒された多くの病人たちは、

自分たちが積極的に求めたから報われた結果だとは言えません。癒されたのは主の憐

れみと恵みであると証しをしています。

 マルコの福音書5章でイエスさまは、12年の間長血をわずらっている女にこう言わ

れました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」ところが、彼女の信仰

は何だったのでしょうか。群衆の中から積極的にイエスさまのところまで行って求め

た熱心さ、それなのでしょうか。もちろん積極性も素晴らしいのですが、彼女を癒し

た信仰は積極性より、ナザレのイエスという方が自分の醜い病気をも治して下さる全

能の神であることを信じていた信仰でした。

 ヨハネの福音書5章に出るベテスダと呼ばれる池で38年間も癒されることを待って

いたある病人がイエスさまによって癒されます。ところが、イエスさまに対する彼の

信仰告白などは一切書いてありません。聖書はただイエスさまによる一方的な癒しの

宣言として記しています。

 マタイの福音書17章20節でイエスさまは言われました。「からし種ほどの信仰があ

ったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。」このからし

種ほどの信仰とは何でしょうか。人間による積極性や熱心さではありません。この信

仰は、自分の祈りを聞いておられる神さまがそうさせて下さるかたであると信じるこ

とです。

 天地万物を造られた神さまは、私たち人間に対する自らの計画をもって、今も聖書

の時代のように導いておられます。それを認め、従うのが信仰であり幸せなのです。


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