イエス・キリストさまの地上でのお働きには、弟子たちを驚かせたことが沢山ありました。ヨハネの福音書4章には、当時のユダヤ人の一般常識を超えたイエスさまの行
為について書かれています。弟子たちが食べ物を探しにいった時、サマリヤの女を伝
道した出来事でした。というのは、当時のユダヤ人社会ではサマリヤ人を人間として
考えていない時代だったからでした。イエスさまは、5人の夫にも満足しなかった汚れ
たサマリヤの女を神の民として赦し、神さまとの和解の道へ導いて下さいました。
食べ物を探してから帰ってきた弟子たちは、サマリヤの女と話しておられるイエス
さまを見て、不思議に思います。しかし、誰もイエスさまに「なぜ汚れた女と話して
おられますか。」「何を求めておられますか。」と聞く人はいませんでした。ただ弟
子たちは、食べ物を持ち出して、「先生。召し上がってください。」とお願いします。
その時、イエスさまは弟子たちに「わたしには、あなたがたの知らない食物がありま
す。」とおっしゃいます。弟子たちは不思議に思い、互い言います。「誰かが食べ物
を持ってきたのだろうか。」続けてイエスさまはおっしゃいました。「わたしを遣わ
した方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」
人間において食物は、体を支えてくれる最も大切な基本となるものです。食物を食
べないとしばらくは耐えるかもしれませんが、人間の体は力がなくなり、結局死んで
しまうでしょう。このように大切な食物に対して、イエスさまは「わたしの食物はみ
こころを行ない、そのみわざを成し遂げることです。」とおっしゃいました。ある意
味で肉の体のために食べる食事よりも、神の御心を行い、そのみわざを成し遂げるこ
とがもっと大切でご自分を支えているとおっしゃいました。
人間は食べ物ばかりに頼って生きる動物とは違い、神の形として造られた霊的存在
であると教えて下さり、またイエスさまご自身も自ら勝手に何かを行われたことでは
なく、神の御心に従い、そのわざを成し遂げておられることを証ししています。
救い主であられるイエス・キリストをこの世に送られた神さまは、きちんとご計画を持ってすべてを行われます。そのご計画に従って、イエス・キリストが来られ、来
られたイエス・キリストも、そのご計画に従って、すべてのわざを行われたわけです。
それで、イエス・キリストはヨハネの福音書6章38-39節で明確におっしゃいました。
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣
わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに
与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終
わりの日によみがえらせることです。」このように、イエスさまはご自分が何のため
に生まれ、何のために生きるべきであるかをよく知っておられました。すなわち、ご
自分に対する神の御心が何かもよく知っておられました。
神の御心が分かり、特に自分自身に対する神の御心が分かることは、神の形に造ら
れた人間として同然のことだと思いますが、残念ながら神を造り主として認めない人
はじめ、多くの人々が御心を持って摂理の中で自分たちを導いて下さる神の主権を知
ろうともしないのです。
神の御心は確かに定められています。そして、神さまは、その大きな決まりを成し
遂げるために、さまざまな摂理の中でご自分の約束の民を導いておられます。それで
は、確かな決まりである御心は何でしょうか。聖書エペソ人への手紙1章3-6節までで
す。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキ
リストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいまし
た。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前
で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちを
イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておら
れたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄
光が、ほめたたえられるためです。」簡単にまとめますと、神さまは、私たち人間を
祝福して下さいました。その祝福は何なのか。イエス・キリストによってご自分の子
にして、御前で聖く、傷のない者にして立たせることです。この計画を実現するため
に愛を持ってすべてを行われます。最終的な目的は、ご自分の栄光がほめたたえられ
るためです。
ですから、私たちクリスチャンが何かをしようとする時は、まず神さまの前で聖く、
傷のない者にふさわしいことであるかどうかを考えるべきであり、神さまに栄光にな
るかどうかを確かめるべきです。これこそ神に導かれる基本的な姿勢になります。
もちろん、ここでもう一つ覚えることがあります。このように大きな御心に導いて
下さる神さまは、そのわざを行われる時、より細かい摂理の中で私たちを導いて下さ
います。
ダビデの生涯を見てみましょう。羊飼いをしていた少年ダビデがイスラエルの王に
なるのが神さまの御心でした。歴史が過ぎて聖書を知っている私たちには分かります
が、当然、当時のダビデは自分が将来イスラエルの王になることは分かりませんでし
た。当時の民の指導者サムエルも分かりませんでした。しかし、計画をきちんと持っ
ておられる神さまは、指導者サムエルをダビデの家まで導き、ダビデが来るまでは王
のしるしとして注ぐ油を、家にいたダビデの兄弟たちには注がないようにサムエルの
考えや行動に立ち入ります。(第一サムエル16:12-13)また、第一サムエル17章を見
ますと、少年ダビデがペリシテ人将軍ゴリヤテと戦って勝利する場面が描いてありま
すが、これもダビデをイスラエル民の前、ふさわしい王として用いて下さる神さまの
摂理です。第一サムエル18章を見ますと、その後、イスラエル民の中には、「サウロ
は千を打ち、ダビデは万を打った。」という歌がはやります。これも民の中に立たせ
る王として環境を備えて下さる神さまのお働きであると思います。続いて第一サムエ
ル24章を見ますと、ダビデは、自分をいじめて迫害をしていた当時のサウロ王を殺せ
る絶好のチャンスをつかみます。しかし、神さまの導きを信じていたダビデは、「私
が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、
手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」
と言って、神さまの時まで導かれることを謙遜に待ち望みます。また、ダビデは第一
サムエル30章8節を見ますと、アマレク人たちがイスラエル民を苦しめていたことで神
さまに尋ねます。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」す
ると神さまが応えて下さいます。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出す
ことができる。」神さまの導きに従って、ダビデはアマレク人を打ち破ります。そし
て、第二サムエル2章1節を見ますと、ヘブロンへ移る時も神さまの導きを求めてから
移ることが分かります。このようにして神さまはダビデをイスラエルの王として導い
ておられることが分かります。
新約時代のパウロという伝道者は、本来アジア宣教のビジョンを持っていました。
宣教という大きな課題は神さまの御心です。ところがパウロにおいてアジア宣教が神
さまの摂理ではないことが使徒の働き16章9-10節に記されてあります。幻を通して導
いて下さる神さまの摂理に、自分の計画をやめたパウロは聖霊によるマケドニヤの叫
びに従い、ローマ宣教に変更します。
このように、私たちも神さまの大きな御心に導かれる時は、細かい摂理のところま
で尋ねながら従うべきであると思います。
ここで、一つ気になることがあります。
神さまの導きに逆らう人間がいる時は、どうなるかと言うことです。神さまの導きに人間が拒否すると、その導きには若干のつまずきが生じます。これは決して人間を
導く神さまの能力や知恵が足らないためではありません。私たちを人格的に導く神さ
まの憐れみによるものです。
モーセを通してエジプトからイスラエル民を導いて下さった神さまは、昼は雲の柱
で、夜は炎の柱で先頭から導いて下さいました。ある日、カナン地の近くまで着きま
した。カデシュ・バルネアと言うところです。しかし、イスラエルの12部族の代表た
ちがカナン偵察から帰ってきて不信仰の報告をしてしまい、その報告に心を奪われて
しまったイスラエル民は神さまの導きに不信を持ちます。その結果、イスラエル民は
目の前のカナン地に入ることが出来なくなります。その期間は40年間も延ばされてし
まいます。しかし、彼らの不信仰で時間は延ばされましたが、神さまの約束の通り、
イスラエル民は新しい指導者ヨシュアによってカナン地へ入ります。
民数記22章を見ますと、モアブ族の王が預言者バラムに、イスラエル民を呪うこと
をお願いします。その時、神さまは預言者バラムに「あなたは彼らといっしょに行っ
てはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」
と教えて下さいます。しかし、預言者バラムはモアブ族から何度も誘われ、イスラエ
ル民を呪おうとします。人間は確かな神さまの御心であるのに、わざわざ逆らおうと
する場合もあります。結局、神さまは、ロバを通して預言者バラムの無知を悟らせます。
このように、神さまの御心は、いつも確かです。たまに、愚かな人間の無知があっ
ても、少しつまずきがあっても、神さまの御心は必ず成し遂げられます。ここで私た
ちの課題ですが、自分の欲や自分の夢を先に求めない限り、神さまの御心を知ること
は難しくありません。「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとし
て、悪い動機で願うからです。」と記されたヤコブの手紙4章3節の通りです。また、
第一ヨハネの手紙5章14節の教えですが、「何事でも神のみこころにかなう願いをする
なら、神はその願いを聞いて下さるということ、これこそ神に対する私たちの確信で
す。」神さまにお願いの祈りも勝手に願うことではなく、御心にかなう祈りをすべき
です。
それで、御心にかなうお願いを申し上げるためには、何よりも神さまの御心が何か
を見分けることが先だと思います。どうすればよろしいでしょうか。
皆さん。私の心を知ろうとするなら、私と付き合うべきだと思います。たまには嫌いと言いますが、21年間同じ屋根の下で付き合っている私の家内が、私の心を一番知っ
てると思います。
神さまの御心を知るためには、神さまと身近な交わりを続けて持つべきです。神さ
まの御心をよく知っていた方は、確かにイエスさまでした。マルコの福音書1章35節の
ことばはよく知られていることばですが、「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに
起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」神さまとの身近な交わりを
いかに大切にされたのかを見せてくれる箇所です。これを私たちは、ディボーション
あるいは静思の時と言っています。これは自分の話をすることが先ではなく、神さま
の声を聞くことがいつも先です。神さまの声をよく聞くと、神さまの御心が自然に分
かってきます。
このように神さまとの身近な交わりをしていたイエスさまは、ヨハネの福音書14章
10節で「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのです
か。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありま
せん。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」神さま
と一つになっているご自分の生き方を証ししておられました。
神さまに導かれ、生かされているクリスチャンの生き方は、ことばを換えて説明す
れば、聖霊に満たされる生き方であり、神と一つになって歩む生き方です。
それで、イエスさまは、本当に信じたいと願う人々にはっきりと語られました。ヨ
ハネの福音書15章4節です。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中に
とどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができ
ません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはでき
ません。」イエスさまに留まることは何でしょうか。ヨハネの福音書15章7節です。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何
でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれが
かなえられます。」主のことばが私たちにうちに留まることこそ、御心を見分ける唯
一の道です。
神の御心は確かに定められ、私たちの人生を導いておられます。その道を見分ける
ことが出来、素直に従うことが出来れば、幸いな人生を送ることは難しくなく、優し
いと思います。また、楽しいと思います。
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