生きておられる神さまは、ご自分の民である私たちを導いておられます。神の導きに対する聖書の約束は確かです。特に旧約の詩篇32:8に「わたしは、あなたがたに悟
りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよ
う。」と記されてあることばは明確な約束です。そして新約にもヨハネの福音書16:
13に「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分
から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあな
たがたに示すからです。」と明確な導きに対する約束が記されてあります。
さて、神さまが私たちを導くのは確かですが、この神の導きをどのようにして見分
けるかが、私たちにおいて何よりも大切であると思います。
今日のテキストには、三日目によみがえられたイエスさまは昇天されてから、約束
された御霊がまだ来られていない時に、主の弟子たちが、裏切ったイスカリオテ・ユ
ダの代わりに空席の弟子を選び出す物語が書いてあります。ある学者たちは、パウロ
が12人の弟子に加えられたので、ペテロが急いで人を選び出したのは間違いだったの
ではないかと指摘します。しかし、イエスの復活の証人として人を選び出した弟子た
ちの判断は間違いではないと思いますし、教会の基礎として12人の弟子たちをしっか
り立てたのは御霊さまの望みでもあると思います。
イエスさまから約束された聖霊に満たされる時を待ち望んでいたエルサレムの群れは、弟子たちをはじめ120人で、一つの場所に集まっていました。ご存じのように、そ
の待ち望んでいた時期は10日間続きました。テキストの15節を見ますと、その頃、ペ
テロが群れの中から立って語りました。16節です。「兄弟たち。イエスを捕えた者ど
もの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことば
は、成就しなければならなかったのです。」ユダが裏切ったのは、サタンの働きに誘
惑されたためですが、それは旧約時代ダビデの口を通して預言された聖書のことば通
りになったことでした。
20節ですが、ペテロは続けて詩篇69篇25節と109篇8節のことばを引用して皆に語り
ました。「実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこ
には住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』」それでペ
テロはみことばに従って提案します。
21節から22節です。「ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、す
なわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの
間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともに
イエスの復活の証人とならなければなりません。」簡単に申し上げると、裏切ったイ
スカリオテ・ユダの代わりに、イエスの復活の証人を選び出しましょう、と言う提案
です。
ペテロは、御霊を待ち望みながら、神の導きを求めました。何より彼は聖書に約束
されたみことばを思い出したのです。当時は今日のようにきれいに印刷され、まとめ
られた聖書はなかった時代でした。個人が聖書を持つことが出来なかった時代でした
し、巻物の聖書は会堂に行かないと見ることも出来ません。しかしもペテロがこのよ
うに聖書のみことばを引用して提案が出来たのは、普段、会堂に行って聖書を読み、
黙想していたからだと思われます。
神さまの約束の預言である聖書は、私たちが従うべき御心を示しています。当然、
従うべき御心を見分けるためには、聖書を読み、それがどういう意味か黙想するしか
ありません。黙想とは、学びや研究とは違います。自分の意志は白紙にしてただ聴く
という素直な姿勢を取ることです。
マタイの福音書23章を見ますと、ある日、復活を信じてないサドカイ人たちが、イ
エスさまのところに来て質問をしました。「何度も再婚していた女性が復活の後に、
だれの妻になりますか。」イエスさまはこのように答えられました。「そんな思い違
いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとるこ
とも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。それに、死人の復活について
は、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。」
(マタイ23:29-31)。
今日も多くの人々が聖書を読んでいても、生ける神さまのことばとして受け止めて
いないかもしれません。また、自分たちの先入観の知識で解釈しているかもしれませ
ん。神さまの声として聴こうとする素直な姿勢がないからです。
祈る時でさえ、自分たちの考えや求めを先にせず、神さまの声を聴くためにすべて
を集中すべきです。もし御心を聴くことを邪魔するものがあるなら、それを除ける祈
りが必要であると思います。もし、誰でも聖書が生ける神さまのことばであると信じ
ているなら、この聖書を通して語っておられる神さまの預言に耳を傾けるべきです。
まるで、草を食べる動物が食べた草を腹から口に出してもう一度じっくりかんで食べ
ることです。みことばをかみしめることです。これは神さまの御心を見分けるために
一番大切なポイントです。
みことばに示され、人を選ぶことを提案したペテロは、共同体の群れの中から聞こえる導きにも耳を傾けました。みことばによる自分の提案が御心であれば、群れの中
からも見えてくる導きがあるはずです。23節を見ると、「そこで、彼らは」と記して
います。これは、120人の群れの共同体がみことばによるペテロの提案に、反応してい
ることです。彼らは、ヨハネのバプテスマの頃から昇天されるまでイエスさまと一緒
だった二人の兄弟を立てました。ただ人を選ぶことではなく、イエスさまの証人にふ
さわしい人物を立てたのです。
神さまの導きを求める時、私たちが必ず確かめるべきことは、共同体からの神さま
の導きです。私たちが救われたことも神の共同体の一人として加えられたことでした。
確かな神さまの導きであるなら、必ず自分たちが属している共同体から聞こえる声に
も耳を傾けるべきです。
ヨハネの黙示録1:20に「わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台
について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つ
の燭台は七つの教会である。」と記されてありますが、これはキリスト者の共同体を
通して働かれる主の声です。
場合によっては、教会の牧師のメッセージを通して、隣の兄弟姉妹たちの分かち合
いを通して、語られる神さまの導きが示される時も多いと思います。ですから、聖霊
の交わりである教会の群れからの協力なしに、物事を判断してしまうと神さまの導き
を見分けることは厳しくなり、難しくなると思います。神さまの導きを見分けるため
には、誰でも信仰の群れである教会に仕えるべきです。地上の教会は完璧にきよめら
れているのではありませんが、真の教会を目指して、続けて改革している地上の教会
に仕えるのは、御心を見分ける大切なポイントになります。
二人を立てた群れは、祈りました。彼らの祈りは、何もせずただ唱え続ける宗教的な呪文とは違います。示されたみことばに従いながら祈りました。
祈りを単なる求めばかりと考えている人が多いと思いますが、24節と25節を見ます
と、彼らは、自分たちが選んだ二人の中でどちらが御心であるかを、神さまに示して
下さるように祈りました。
聖書が教える祈りとは、自分の一方的な欲求の願いではありません。むしろその反
対です。最終的には、神さまによるご判断を示していただくのが祈りです。それで霊
性深い指導者ヘンリ・ナーウェンは、「真の祈りは、静まって、自分に語っておられ
る神さまの細い声に耳を傾けることである。」と言いました。彼は、この祈りには厳
しい訓練が必要であると言いました。
この祈りは、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてくだ
さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさって
ください。」(マタイ26:39)とゲッセマネで祈られたイエスさまのように、最終的
な判断を神さまに譲る祈りです。
120人の群れは、神さまによるご判断に委ねてくじを引きました。くじを引くことが御心を見分けるために大丈夫かなと心配する人もいるかもしれません。へブル人への
手紙5章14節には、こういうことばが書いてあります。「堅い食物はおとなの物であっ
て、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」
これは良い物と悪い物とを見分けるためには、経験によって訓練された人の感覚もよ
く使うべきであるということばです。
神さまの御心が確かであるなら、それを成し遂げるプロセスには、それぞれの常識
と経験によって訓練された感覚が十分用いるべきです。例えば、日曜日教会に行くの
が神さまの御心であるなら、行く方法はそれぞれの知恵を活かして決めるべきです。
いつものように車で行くか、今日は道が込むから電車で行くか、あるいは歩いていく
かはその人の経験による判断に委ねられたことです。家族を神さまに導く伝道は確か
に御心ですが、家族を伝道する方法は、人によって様々だと思います。
神さまの導きを見分ける時、聖書信仰だからと言って、人間の経験によって訓練さ
れた常識や感覚を全く無視する方がたまにいますが、これは正しくない考えです。も
ちろん物事の判断において自分の経験が先に働くのは困りますが、判断の最後の視点
では活かすべきです。神さまの御心をよく分かっているのに、いつも時間をオーバー
して時を逃してしまうことが多い人もいました。
それから、参考のために申し上げますと、環境による神さまの導きにも目を向けた
らよいと思います。使徒パウロはローマに行こうとしていましたが、環境によって道
が開かれるまでは待っていました。最後になりますが、御心に対して自分の心に平安
などがあるかどうかです。いつも、御心を見分ける時、自分の気持ちは最後になるべ
きです。
御心を見分ける時、注意事項もいくつかあります。まず、自分の欲を捨てる訓練が
必要です。そのためには、規則的にみことばに耳を傾ける訓練であるディボーション
の生活を大切にすべきです。もし、間違って適用してしまった時は、それが取り消す
ことが出来るならそうしてからもう一度、神さまの導きに見分けるべきです。仕事や
事業をやめたりすることです。しかし、取り消すことが出来ない場合、例えば、結婚
などや学校の入学などですが、その時は決して慌てないで、御心が何であるかをもう
一度、伺うべきです。目に見える結果よりも、神の子供として、御前に聖く傷のない
者になるかどうかに関心を持つべきです。
メッセージを終わる前に、神さまに導かれ、ここまで参りましたこの牧師の証しを
させていただきたいと思います。10年前まで、ソウルで10年間牧師をしていました。
副牧師をやめた私は、家内と二人で思いがけないほどの苦労も主にある導きだと思い、
感謝してゼロから教会開拓の伝道を始めたのが1980年1月6日からでした。二人はすべ
てをかけて伝道しました。ある日、御心だと思い、持っていた自分の家も会堂建築の
ために全部捧げ、また家賃の負担を軽くして献金するため1年に何回も引っ越しするほ
ど厳しい経済との闘いも喜んで受けていました。数年後、開拓した教会は、順調に成
長しある程度安定してきました。会堂建築の借金も全部払い終わり、子供集会や別の
集会をしていた学生会まで入れ、1部、2部合わせると毎週約1000人ほど礼拝する教会
になりました。牧師に対する信徒たちからの謝儀やもてなしも十分すぎるほど、私な
りには豊かでした。
ところが、1989年度のある日、使徒の働き13章のディボーションのみことばでした。
突然、主の導きは、「日本に行きなさい。」と言われました。ソウル教会の牧師をし
ながら1988年度の1年間、開拓に手伝っていたこの川崎の教会に伝道者を送り出そうと
祈っていた頃でした。4人の副牧師や伝道師から誰かを送ろうと思っていましたが、神
さまはアンテオケ教会が5人の指導者から教会の最高リーダーを送り出したように、自
分のソウル教会からも主任牧師であるあなた自身が日本宣教に行くべきだと言われた
ような気がしたのです。私は、これは間違った理解だと思い直そうとしましたが、み
ことばによる主の導きは確かなことでした。
家内に話して祈ってみることにしました。もちろん、家内は反対してくれたのでほっ
としました。しかし、1ヶ月ほど祈ってみた家内は、苦労はもう沢山だと思っていたの
に「私たちが宣教に出ないとこの教会に大きな試練が与えられるかもしれません。」
と、とんでもないことを話したのです。当時小学校3年生と5年生だった子供たちにも
話しました。もちろん反対でした。3年生の息子が「パパ、この教会はパパの教会では
なかったの。パパが社長と同じじゃないの。」その時、私は決心しました。教会は主
のものなのに、自分の子供たちに正しく教えることが出来なかったことに悔い改め、
離れることを決めたのです。
次は、教会の長老会に話しました。全員反対でした。その後、私は祈りの場所があ
る山に逃げました。そして、次に赴任される牧師を迎える計画のため祈ったのです。
それが1989年12月初旬でした。全員私より年上なのに、長老たちは山まで来て正座を
して涙で私の辞任を撤回するように求めました。しかし、私は彼らに言いました。
「主のみことばによる導きです。あなたたちに寂しい気持ちはありません。今までよ
くやってくれました。新しく赴任される牧師をよろしくお願いします。」牧師を招聘
する長老教会だったので、彼らの協力も必要でした。
12月の最後の主日には、「なぜこの牧師が教会を去るべきか。」というテーマのメッ
セージをして、主の導きに従う牧師を助けてくれるように信徒たちを慰めました。韓
国の牧師は教会のお父さんのような立場です。皆が泣きました。しかし、主の導きに
従う牧師に反対することが出来ない信徒たちは、泣きながら私たちの家族をこの日本
に送り出す派遣礼拝を1990年2月25日に行いました。すべての家財道具は貧しい信徒た
ちにさしあげました。
ところが、教会を辞任したのに、日本に入国出来るビザは下りませんでした。皆が
心配してくれましたが、私には平安でした。もし宣教ビザが出なくても旅行ビザで宣
教に行くと決めていたからでした。しかし、次の週ビザは下りて家族皆が3月12日に日
本に上陸する事が出来ました。神さまの導きはすばらしいタイミングでした。
もうすでに、家族とともに来て、今年10年目に入りますが、主の導きに従ったのが
幸せの恵みでした。思いもよらないところまで主の備えがありました。川崎の多くの
兄弟姉妹たちを通して主の導きをもっと楽しくして下さいました。本当に主の導きに
従って日本に参りましたことに心から感謝します。
また、続けて私の人生の先頭に立って導いておられる神さまの顧みに楽しみにして
います。皆さんも主の導きに楽しく従って下さい。
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