霊的に生きるために、私たちは神に選ばれた者であるという聖書の真理を、今日の礼拝から4回連続で学びたいと思います。
神の子として来られたイエスさまは、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けら
れてから、公の生涯が始まります。神の子、むしろ神ご自身であられるイエスさまが
何の罪もないのに、バプテスマを受けられたのは、つまり私たちへの救済のためでし
た。また、それは父なる神さまのわざを行うためでした。ことばを換えて言うと、ご
自分が何のために生きるべきであるのかをはっきり示して下さった出来事でした。
マタイの福音書3章16節には、このように書いてあります。「こうして、イエスは
バプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩の
ように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」続けて17節です。「また、
天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」
イエスさまがバプテスマを受けられた時、言い換えると公のご生涯を始める時、聞
こえてきた声は、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という神さ
まのことばでした。このことばのように、イエス・キリストの生涯は、神さまに愛さ
れた子として全生涯を全うされました。
ここで、このイエス・キリストのバプテスマの場面から私たちキリスト者は、与え
られた自分の生涯についてどのように生きるべきであるかという課題に、はっきりし
た答えをいただくべきです。
キリスト者として生きること、すなわち霊的に生きることは、何かの宗教的なこと
を行うことより、自分自身はどのような人間なのかという自己吟味が先であると思い
ます。人間は自分が行った実績を見て自分の存在を確かめようとします。よく勉強を
して博士になって、先生と呼ばれる時、その人は自分が人の先生であると自己認識を
します。仕事に成功して社長になった人には、まわりから偉そうに、うらやましそう
に見られる視線を感じることを通して、自分はこんな者であると認識します。
しかし、彼らが認識しているそれらは真の自分自身ではないと思います。博士とい
う肩書きと真の自分とは違います。あこがれの社長と言われる立場と本当の自分自身
とは違います。私も牧師と呼ばれる人間ですが、牧師という立場が真の自分ではない
と思います。それでソクラテスも「あなた自身を知れ。」と言ったのです。
このような意味でキリスト者である私たちが真の自分自身を知ることこそ、霊的に
生きることであると教えています。イエスさまは何かを行われる前、父なる神さまか
ら「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と言われ、示された生涯で
した。同じように私たちキリスト者は、神さまに愛されている子どもであり、神さま
に喜ばれている人生です。このことを私たちが本当に信じ分かっているかどうかが霊
的に生きるための重大な鍵になります。
それでは、真のキリスト者であるなら、自分が神さまに愛されている存在であるこ
とをどのように確かめることが出来るのでしょうか。これを先に理解していただくこ
とが霊的に生きることの出発になるでしょう。
さて、今日は霊的に生きるため、一人の人物の生涯を通して学びたいと思いますが、
その名はアブラハムです。彼は神さまに愛されていた人物として、私たちに大きな教
えを与えています。神さまに愛されていたアブラハムは何よりも彼自身が神さまに捕
らえられた人生でした。神さまに捕らえられることこそ、愛されているしるしです。
霊的に生きるために、第一番目の段階はキリスト者である自分の全生涯が神さまに捕
らえられていることを認めることです。神さまに捕らえられるというのは、別のこと
ばにすると神さまに選ばれたということになります。
アブラハムは確かに選ばれた人物です。生まれ故郷であるカルデヤ人のウルから神さまに選ばれ、神さまが示す地へ旅立ったのです。それが霊的に生きる彼の出発でし
た。
深い意味を持つこの神さまの選びに対して、分かりやすく説明するのはとても難し
いことだと思いますが、しかし神さまの御声に耳を傾けようとするなら、幾らかでも
分かるようになると思います。
私たちが生まれてから歴史の一人になるその時より永遠の昔から、神さまの御心は
計画されていました。両親が私たちをかわいがるより永遠の昔から、まわりの人々が
私たちを認めてくれるより永遠の昔から、学校の先生や友人、職場の上司が励まして
くれるより永遠の昔から私たちは神さまに選ばれていました。愛の神さまが私たちを
愛して、尊い存在として、限りのない美しい存在として、永遠の価値ある者として、
私たちを選んで下さいました。これを私たちは神の恵みと言います。神学者カルヴァ
ンは神の無条件的選びと言います。
預言者イザヤは神さまによる選びに対して、このように語りました。「あなたを造
り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰
せられる。恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのもの。」(43:1)
また、新約の使徒パウロもローマ書5:8で「私たちがまだ罪人であったとき、キリ
ストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛
を明らかにしておられます。」と愛の神さまによる選びの意味を語ってくれたのです。
聖書によって申し上げます。あなた方が真にキリスト者であると信じるなら、間違
いなくあなた方は神さまの愛のゆえに選ばれた者です。これを頭で理解するのはとて
も無理だと思いますが、偉大な霊的神秘である神さまの愛による選びを理解するため
には、あなた方の純粋な心の世界がはたらかないと理解出来ないと思います。それぞ
れの心に示される神さまの愛によって選ばれた確信こそ、霊的に生きる出発点になる
のです。「私は神さまの愛のゆえに選ばれた。」という口の宣言は霊的に生きる一歩
になります。
ここで私たちが覚えておくことは、選ばれた確信を持つことによって、一方の選ばれてない世界に対する軽蔑や無視、恨みと怒りなどが生じる可能性がありますが、こ
れは神さまの選びのわざに対抗するものなので、迷わされないように気をつけなけれ
ばならないということです。
創世記12章10節以後を見ますと、祝福される者の先祖として神さまに選ばれたアブ
ラハムは、カナン地まで導かれますが、その地に飢饉があったので、妻サラとともに
エジプトの地に移ります。ご存じのように神さまに選ばれたアブラハムではあるけれ
ど、彼はエジプト人を恐れていたので、一時的に神さまに選ばれたことを忘れてしま
い、自分の妻を妹だと嘘をついてしまいます。エジプトの環境が神さまに選ばれた彼
の意識を奪ってしまいました。これは、今日の私たちにもあり得る課題です。
キリスト者である私たちのまわりには、アブラハムが直面していた環境のように、
神さまに選ばれた確信を取り壊そうとするあらゆる環境からの攻撃が激しくなってい
るのが現実です。脅す闇の声があらゆるところから絶えず聞こえてきます。「あなた
は特別な存在ではありません。ごく普通の人間に過ぎない存在です。」当たり前の話
しのように聞こえますが、これらは神さまに愛され選ばれた私たちの確信を弱くする
暗闇の攻撃です。
ある若者は、母からこのような話まで聞かされました。「あなたは望まれずに生ま
れたの。仕方なく産んだの。」こういう話しは、恐らく神さまに選ばれた確信を失わ
せ、尊いいのちを与えて下さったお方の愛を感じさせずに挫折と絶望に落とします。
この暗闇の世界は、私たちの心を萎えさせるために、私たちの弱いところばかりを
見せつけ、また、他者を良き隣人としてではなく、競争相手としてしまいます。なぜ
なら暗闇の力は、私はだめだと自分を挫折させ怯えさせ、自分自身を苦しめるその人
をより深い暗闇の方に引きずり込んでいきます。
ですから、キリスト者はこれらの暗闇の声に、欺かれることがないように、いつも
霊的闘いをすべきです。この暗闇の世界の声が存在するより遥か永遠の昔から神さま
は生きておられ、私を愛し、選んで下さったことを告白し、賛美すべきです。その愛
とその選びを人々に証しすべきです。私たちが選ばれたのは、人からではなく創り主
の神さまによることだからです。
それでは、このような霊的闘いに勝利するためにどうすればよいか考えてみたいと思います。創世記17章を見ます。弱いアブラハムをありのまま受け入れ、選んで下さ
った神さまは、この選びの恵みを忘れないようにアブラハムの体にしるしをつけるよ
うに命令をされます。それは割礼です。
創世記17:9-10節で神さまはアブラハムに仰せられました。「あなたは、あなたの
後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。
次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あな
たがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受け
なさい。」神さまのことば通り、アブラハムをはじめ彼の子孫は割礼を行いました。
その割礼を通して彼らは選ばれた神の民としてのアイデンティティーを確認し、保つ
ことが出来ました。
それでは今日の私たちも神さまに選ばれた民として生きるために、割礼を受けるべ
きでしょうか。この質問に対して、使徒パウロはローマ書2章29節で「御霊による、
心の割礼こそ割礼です。」と答えてくれました。この御霊による心の割礼は、今日に
生きるキリスト者である私たちに、とても大切な課題であると思います。一時的に揺
れることがあっても御霊による割礼のしるしがあるなら、すぐ立ち直り、勝利の闘い
に立ち向かえます。アブラハムが受けた一度の割礼のしるしが世の終わりの時まで、
神さまに選ばれた確信を持たせてくれたように、御霊による心の割礼のしるしが私た
ちが神さまに選ばれた確信を世の終わりまで持たせてくれます。御霊のしるしを確か
めましょう。
霊性神学者ヘンリ・ナーウェンは、霊的闘いでの勝利のために三つの提案をしまし
た。
(1)「まずキリスト者たちは、この暗闇の世界がどういうものであるか、その正
体を正しく知るべきである。」その通りだと思います。ヨハネの福音書8章44節によ
りますと、「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには
真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているの
です。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」と書いてありま
す。ですから、悪魔、が神さまに選ばれた私たちに口を出す時も、いつも嘘ばかり言
うので、私たちは堂々と言うべきです。「私は弱くても選ばれた神の子どもである。
過ちがあっても愛され、選ばれた神の子である。」と。
(2)「選ばれた者である事実を思い起こしてくれる場所や人を捜して行くべきで
ある。」その通りです。聖書が正しく語られるところに行くべきであり、神さまに愛
された証しを分かち合う人に行くべきです。信仰の群れと一緒になるべきです。
(3)「選ばれた事実に続けて感謝すべきである。」その通りです。自分の人生が
偶然出来たものではなく、神さまによって選ばれた人生であると認めるなら、口で感
謝を表すべきです。または電話やカードで、手紙やお花で、自分で出来るあらゆる表
現を活かして選ばれたことに感謝を表すべきです。ところが神さまに選ばれたことで
感謝しようとする時、いつの間にか不平不満や言い訳が目の前に現れてくることがあ
ります。感謝が感謝を生み、祝福に導いてくれますが、不平不満は私たちを暗闇の世
界に引きずり込んでいきます。
メッセージを終わりたいと思いますが、神さまに選ばれた確信に満たされると、まわりの兄弟姉妹たちも神さまに選ばれているという真理を内側から教えられます。そ
して兄弟姉妹たちが神さまに選ばれたことを、ともに喜ぶことが出来る幸せを味わい
ます。隠されていた弱さが見えても、神さまに選ばれた兄弟であると思うと、すべて
が感謝に変わり、主にある一つの家族であることを感じさせられます。霊的に生きる
ことが出来ます。
今、隣にいる兄弟姉妹に「あなたの人生は神さまに選ばれた素晴らしい人生ですね」
と語りかけ合いましょう。