神さまに愛された者として働かれたイエスさまは、ある日、選んだ70人の伝道者たちを、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先に送り出しました。そ
の時、彼らに頼んだ事がいくつあります。ルカの福音書10章5-6節を見ますと、「ど
んな家にはいっても、まず、『この家に平安があるように。』と言いなさい。もしそ
こに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります。だ
が、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。」と頼んだことが記さ
れてあります。これはイエスさまの代わりに遣われた弟子たちが何のために遣われた
のかを簡潔にまとめた記録です。「この家に平安があるように。」「あなたに平安が
あるように。」彼らのことばで言うと、「シャローム」という祝福のことばです。
お働きの最後のところでのイエスさまは、ヨハネの福音書14章27節で弟子たちに言
われました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわ
たしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違いま
す。」そうです。イエスさまは、この世が与えるのとは違う平安の中で、私たちが祝
福されることを願っておられます。これは神さまに選ばれた者が霊的に生きるための
過程であるからです。
バル・ミツバというユダヤ人の成人式は13歳の時行います。トーラーという巻物の
聖書を持って会堂に入場する成人式の13歳の少年は、初めて会堂で聖書朗読し、また
読んだみことばの解き明かしもします。その後、ラビという先生によって少年が成人
になったことを宣言されます。最後は会衆の前で父親からの祝福のことばが渡されま
す。「愛するわが子よ。あなたの人生にどんなことがあっても、成功しても失敗して
も、偉い人になってもならなくても、健康であっても病になっても、いつも相変わら
ず父と母はあなたをどんなに愛してるかを覚えていてくれ。」それから少年は祝福さ
れた成人として出発いたします。
神さまに選ばれた者である私たちキリスト者は、祝福された者であり、祝福する者
として選ばれたのです。アブラハムの人生を通して示して下さる教えは、神さまに選
ばれた者は祝福されるために、神さまに愛された人生があるという事です。
私たちは祝福ということばになじんでいますが、祝福ということばの意味を考えてみたいと思います。ラテン語で祝福するということばは、ベネデセレ(benedicere)
と言います。教会の礼拝の最後に祝福の宣言という意味の祝祷(benediction)が行
われますが、直訳すると良く(bene)話すこと(dicto)、相手の長所に対して話す
ことであります。
誰かを祝福するというのは、まずその人の存在を認めることから可能になります。
神さまはアブラハムを尊い存在として認め、選び、祝福して下さいました。また、ア
ブラハムに与えられた祝福は、神さまから愛され選ばれたことのしるしになりました。
言い換えると、アブラハムは祝福されるために選ばれ、愛されたのです。
続いて、この神さまによるアブラハムとの契約は、アブラハムだけではなく、アブ
ラハムの子孫として選ばれている私たちキリスト者にもその契約の原理が結ばれてい
るのです。ですから、アブラハムのように、私たちキリスト者も神に祝福されるため
に愛され選ばれています。
そういう意味で互いに祝福することは、隣りの人が神さまに愛され、神さまに選ば
れている事実を「その通り」と認めてあげることです。「あなたは神の子です。」
「あなたは神さまに愛された者です。」と相手を認めることこそ真の祝福です。心に
もないお世辞のことばではありません。人間関係を維持するための口先だけの偽善的
なことばではありません。本当に相手が神の前に、愛され、選ばれたことを認めるの
がその人に対する神の計画を祝福することになります。
預言者イザヤを通して神さまは語られました。「わたしの目には、あなたは高価で
尊い。わたしはあなたを愛している。」(43:4)神さまの祝福はすばらしいです。同
じように私たちも互いに「あなたはわが教会で尊い存在です。」「あなたはわが家族
で尊い存在です。」「あなたは神さまに愛されている者ではありませんか。」と語り
合うべきです。これこそ真の祝福です。
神さまに祝福された者は、続けて祝福される者として生きるべきです。それが霊的に生きることです。私たちは、神さまに選ばれた事実だけに止まらず常に聞こえてく
る神の祝福を必要としています。私たちを愛し選んで下さった神さまは、一度選んだ
だけで見捨ててしまうお方ではなく、一生の間愛をもって導いて下さり、祝福して下
さる神さまです。祝福の約束が真であるなら、その祝福は一時的ではなく続け
られるべきです。
ですから、続けて支えられる祝福の人生として生きたアブラハムを初め、サラも、
イサクとリベカも、ヤコブとレア、ラケルも続けて与えられる神の祝福をいただき、
霊的に生きることが何なのかを証ししてくれたのです。それで彼らは信仰の父と母に
なったわけです。彼らは長い人生の中で辛い苦しみもありましたが、自分たちが神さ
まに祝福された者であることを一度も忘れたことはありませんでした。同様にイエス
さまも、やはりヨルダン川でバプテスマを受けられた時、聞かれた神の御声である
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という神の祝福を一度も忘れ
たことはありませんでした。どんなに激しい迫害とのろいがあっても御心に従い、霊
的に生きられたのは、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という
祝福のことばがいつも支えてくれたからでした。
このように、自分自身が神さまに祝福されているという信仰の確信に満たされるこ
とこそ大切です。すでに先週のメッセージにも語りましたが、アブラハムは決して意
志の強い人ではありませんでした。自分が神さまに愛され、選ばれた祝福の人生であ
ることをすぐ忘れてしまう弱い人でした。この過ちはくり返して犯しました。しかし、
憐れみの神さまはくり返してアブラハムを祝福して下さいます。創世記12章で「わた
しはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよ
う。あなたの名は祝福となる。」と祝福して下さった神さまは、また13章で甥ロトと
別れて寂しがっているアブラハムに神さまは再び祝福して下さいます。「さあ、目を
上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見
渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あ
なたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、
あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。
わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」(14-17)また、14章でシャレムの
王メルキゼデクを通して祝福して下さいます。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を
造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、
誉れあれ。」(20-21)また、15章5節で神さまはアブラハムを外に連れ出してくり返
して祝福して下さいました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるな
ら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」
皆さん。アブラハムのように私たちも続けて神の祝福を受けるべきではありません
か。なぜなら、私たちは祝福されているという確信より、むしろ自分は呪われている
と、自分自信を責める場合が多いからです。それで、すぐあきらめたり、不平文句の
不信に走りやすいし、まわりの貧しさ、病、経済の不況、社会の不安、環境の崩壊や
終わらない戦争などを見て、私たちはすぐ自分は呪われた時代にいると決めつけてし
まいがちです。祝福されたことより呪われたことを信じてしまいがちです。
たまに、信徒に「最近のお仕事はいかがですか。」と訪ねますが、ほとんどの方の
答えは似ていました。「全くためです。」頑張って答える方でも「まあまあです。」
と言いました。皆さん。アブラハムが失敗の中でも神さまから祝福されたのです。ま
だ終わってない人生なのに「だめです。」と決めつけるのは、正しくない考えだと思
います。その考えは間違いです。自分は呪われていると思うのは信じやすい話しかも
知れませんが、全く嘘です。私たちは神さまに愛され、選ばれた祝福の民です。
それでは、私たちが祝福されたという事実が単なる気持ちだけではなく、日常生活を形成して行く真理であるなら、この祝福は見えるものとして、また経験するものと
してなすべきであると思います。それで私は皆さんに神さまに祝福された者として証
し出来るようにいくつかの提案を致したいと思います。
まず、神さまからの祝福の声が聞こえる祈りをしてみて下さい。祈りに対して多く
の方が教えますが、霊性神学者ヘンリ・ナーウェンは、「真の祈りは、静まって自分
に向かって語っておられる神さまの祝福の御声に耳を傾けることである。」と言いま
した。私たちには祈りというと、神さまに多くのことばをもって、沢山申し上げるこ
とであると考えがちです。しかし、ラジオの音を消し、テレビを消し、読みたい本も
閉じ、話したいと思うお友達とも会わず、あちらこちらにかけたい電話も外して、静
かに沈黙の祈りに入ってみて下さい。馴れていない方は静かな沈黙の祈りに入るのが
恐くて、すぐ口を出して祈ってしまうかもしれません。しかし、少し我慢して静まり
沈黙の祈りに入ってみて下さい。あらゆる激しい雑音から解放され、しばらくの間、
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という神さまの祝福のことば
が聞こえてくると思います。これは決して体の耳で聞く声ではありません。心の耳で
聞くべきです。
出来るだけ毎日、神さまの祝福の声を聞く沈黙の祈りを10分でも20分でも続けてみ
て下さい。これは信仰の訓練であると思いますが、私たちが続けて祝福される秘訣で
もあります。そして、それから他人を祝福する力を得ることも出来るのです。
ここでより具体的に提案をしますと、神さまに耳を傾けるために、みことばを用い
てやってみて下さい。ディボーションのテキストのみことばの中で、示されたことば
の箇所を日々くり返して噛みしめて黙想します。これは積極的に神さまの御声に耳を
傾ける方法です。
私は、たまに、今年のわが教会のテーマソングであるアッシジの聖フランシスの
「平和の祈り」をくり返して黙想して来ました。「主よ。我を平和の使者としたまえ。
憎しみに愛を、いさかいに赦しを、分裂に一致を、疑いに信仰を飢えさせたまえ。慰
められるより慰めを、理解されるより理解することを、愛されるより愛することを。
我をすべて捧げよう、永久のいのち得るため。主よ。我を平和の使者としたまえ。」
これらのことばが口や頭から心に移されると、あらゆる不安と怒り、欲望がなくなり、
不思議に平安と安らぎが訪れ、神の祝福を味わう事が出来ます。心の落ちつきがない
時は、出来れば単純な沈黙の祈りを通してもう一度神の御声に耳を傾けて下さい。
もう一つの提案があります。小さな祝福にも感謝していただくことにしましょう。
これは他人を通して、または環境を通して訪れる細かい神の祝福に速やかに応答する
ことです。たまに人から誉められた時、「いいえ。そんなことありません。私は出来
ません。」と無視してしまう場合があります。謙遜な態度だと思いますが、一方神の
祝福を素直に受け入れる心の用意が出来てないしるしかもしれません。アブラハムは
通り過ぎるメルキゼデクからの祝福にも積極的にアーメンしていただきました。
心の耳が開かれると、あらゆる自然からも神の祝福の御声が聞こえてくると思いま
す。「神の祝福は強制的に与えるものではない。」ということばがあります。素直に
受け入れる人のものになります。常に神さまに祝福されている者として生きることこ
そ、霊的に生きることになります。
皆さん。祝福の道と呪いの道との間に中間の道というところはありません。私たちはどちらかで生きるかを選択しなくてはいけません。この選択は一瞬一瞬にすべきこ
とです。メッセージを終わりますが、神の祝福は誰でも求めることですが、欲望に満
ちている人ではなく、神さまに祝福され、霊的に生きている人には特徴が一つありま
す。それは祝福された者として他人を祝福することを楽しみにしていることです。人
の弱さや過ちを口にしないで、人の長所を祝福するのが楽しみです。アブラハムは過
ちだらけの甥ロトを責めるより心から祝福しました。霊的に生きることがこれです。
シャローム。