霊的に生きる(3)−傷ついた者

(IIコリント4:7-18)   1999年2月21日(日)
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 霊的に生きるということについて第一に私たちが神さまに選ばれ、第二に神さまに

祝福されているという話しをしました。この二つのことはとってもすばらしいことで

す。この二つだけの話しが霊的に生きるための課題であるなら、霊的に生きることは

あまり難しくないような気がします。もちろん、霊的に生きることが難しいことと言

うつもりではありません。

 しかし、確かなことは、神さまに選ばれ祝福されたと多くの指導者たちや預言者た

ちの人生の背後を見ますと、とても多くの深い傷を負っていたことが分かります。そ

して、神に選ばれ祝福された信仰の確信を持つ私たちにも、また傷は確かにあること

に気づかされます。

一、宝を預かっている土の器(7)

 使徒パウロは第二コリントの手紙4章で、神さまの選びと祝福をいただいている私

たち人間を土の器であると表現しました。これは神さまからお預りした中身はとても

すばらしい宝ですが預かっている器である人間はただの土の器であると言っています。

 土の器は、傷つきやすいものであり、壊れやすいものです。土の器である私たちの

中で「自分には傷などは全くない。」と言える人は一人もいないだろうと思います。

人には言えないけれど、心に隠されてある自分だけが知ってる傷は相当に多いと思い

ます。

 しかし、多くの人々は自分は強いから、あるいは自分は人柄が良いから傷ついても

何も気にしないと、現実の課題をごまかしているように言う人もいると思います。け

れども私たちは土の器ですから傷つきやすいのは当然であると、自分から認めれば気

楽になると思います。

 ここで大事なことは、宝を預かっているからこそ土の器はより傷つきやすいのであ

り、傷に対する考えを正直すべきであると思います。それぞれの苦しみや痛みの傷は、

決して私たちの人生において消極的な意味ばかりではありません。むしろ、その傷の

痛みへの取り組みによってはむしろ、深みのある人格を形成することになります。

 人が自分の心の傷について話しをするということは、余程の場合です。自分の傷を

他人に話すのは普通ならば決して見せないより深い自分を表に出すことになり、その

相手を信頼しているという意味にもなります。ですから、皆がそれぞれの隠れた傷を

持ち出して分かち合うことが出来るなら、これはクリスチャンのみのすばらしい特権

を味合うことになります。

 ところが多くの人々は、自分の傷こそ誰の傷よりも大きく、深いと考えているので

す。誰でも自分ばかりが苦しんでいると考えがちです。しかし、神さまの選びと祝福

が特別であるように、私に与えられた傷も特別な私だけのものであることを覚えるべ

きです。神さまに選ばれ与えられた恵みや祝福された特権同様に、傷も神さまから与

えられたものです。おかしく聞こえるかもしれませんが、神さまに愛されている者と

しての私たちは、特別な選びと特別な私だけの祝福を自慢するように、与えられたあ

らゆる自分の傷も自慢するものとして考えるべきであると思います。

 私たちの受けた傷には、いろんな種類がありますが、一番多いのは、内側の傷、心

の傷であると思います。肉体的な傷である病、精神的な傷、経済的な貧困なども、人

によって激しい痛みであると思います。が、夫と妻の関係、両親と子どもの関係、友

人との関係、職場の人間関係による傷、いわば人に好かれないとか、仲間外れにされ

たり、独りぽっちになってしまう傷は、人に言えない傷として残ってしまい、隠れた

傷になってしまうことがあります。

 障害者施設で数年奉仕していたハーバード大学の霊性神学者ヘンリ・ナーウェンの

話しにある、「私たちの社会において最も大きな苦痛の原因は、障害それ自体ではな

く、人にもてないし、はずされたり、認められないことで、自分は愛されてないと感

じとってしまう気持ちの障害にある。」と言ったとおりです。

 土の器である私達人間に、傷のない人は一人もありません。それでは、この傷をど

のようにすればよいのでしょうか。

二、傷から逃げないで付き合う(8-9)

 使徒パウロは、自分を攻めてくるあらゆる傷をまず認めていました。「四方八方か

ら苦しめられたり、どうしたらいいか全く分からない迷いに置かれたり、迫害された

り、倒されたりなど」いろいろな傷をうけていました。このような彼の生涯から学ぶ

ことは、決してパウロは受けた傷から逃げようとしなかったことです。ある意味で自

分の傷と付き合っていたのです。ここで私たちクリスチャンは、霊的に生きることの

意味を深く学ぶことが出来ます。

 皆そうだと思いますが、攻めるように苦しみの傷を歓迎し喜んで受け入れる人は一

人もいないだろうと思います。ほとんどの場合、与えらた苦しみがどういう意味であ

るかは考えず、取りあえず苦しみから逃げたり、出来るだけ遠くまで離れようと考え

ています。あるいは、その苦しみを無視しようと考えます。

 自分の傷と付き合うことは、それは自己虐待のように聞こえるかもしれません。し

かし、受けた傷を癒すための最初の一足は、傷から逃げることではなく、攻めるよう

にくる傷を認め、付き合うことです。勇気を出して自分の傷を抱きしめ、最も恐ろし

いこの傷という敵を友にして行くべきです。

 そして、自分に与えられた傷について、その意味を詳しく知るべきです。苦しみの

傷の意味をよく考えないことによって、余計に傷が癒されないということが多くあり

ます。特に隠れてある傷がそうです。

 突然、交通事故でご主人をなくしたある若い姉妹のことを憶えています。まだ幼い

二人の子どもたちに父の死亡を教えるのはとっても残酷な話しであり、無理な話しだ

と思い、幼い子どもたちには、父の死を隠しました。子どもたちには、遠い国にお仕

事に行かれたと教えたそうです。当然、お墓参りも子どもたちにはさせなかったそう

です。苦しみの傷から逃げていたのです。しかし、これは子どもたちを愛することの

逆の結果にことにしかなりませんでした。苦しみの傷を知らない子どもたちは成長し

大人になりましたが、痛みから逃げる生活になれてしまって、当然人間にあるはずの

自分たちの傷と付き合うことが全く出来なくて、暗い人生をおくることになってしま

いました。

 それで、苦しみの傷を逃げている人々に、使徒パウロは第一コリントの手紙10章13

節のことば通り「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありま

せん。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わ

せるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、

脱出の道も備えてくださいます。」と苦しみの傷に立ち向かえるように、励ましてい

るのてす。

 また、ここで、どうして苦しみの傷に立ち向かえないといけないのかと訪ねる人に、

今日のテキスト17節のことばをとおしてこのように答えています。「今の時の軽い患

難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」

 私たちにある苦しみの傷は、決して喜びと平和への邪魔物ではなく、むしろ真の喜

びと平和に至るガイドになります。これを認め素直に受け入れることこそ霊的に生き

ることになります。言い換えて申しあげれば、私たちが神さまに愛されたものとして

生きるのなら、楽しみであっても悲しみであっても、喜びであっても苦しみであって

も、健康であっても病であっても、すべてが神の栄光のためであるという聖書の視点

から考えるべきであると思います。ですから、苦しみの傷にも御心があるはずなので

しっかりと向き合うべきです。

 去年10月に初出版され、つい最近16刷まで印刷された「五体不満足」という本があ

ります。最近読んですばらしい感動を受けました。著者である乙武洋匡(おとたけひ

ろただ)君は、1976年に平凡な夫婦から産まれた平凡な赤ちゃんでした。しかし、彼

の体には誰でもあるはずの手足がない先天性四肢切断でした。一生他の人に世話され

ないと何もやっていけない酷い障害者として産まれたのです。これからの長い人生を

思うと赤ちゃんにはあまりにも大きすぎる苦しみの傷でした。しかし、彼は幼稚園の

時から今の早稲田大学の大学生になっているところまで普通の子どもたちと全く同じ

ように体育が大好きな子どもでした。車椅子の生活ですが、膝の先がない短い足と10

センチ程の短い腕でバスケットボールをドリブルしたり、脇の下に野球バットを挟み、

体を回転させるスイングは見事でした。彼が行くところは人が集まり明るい勇気と感

動を与えました。彼は自分に与えられた苦しい傷と良く付き合っていました。

 本の最後のあとがきに、有名なクリスチャン障害者であったヘレン・ケラーのこと

ばが記されています。「障害は不便である。しかし、不幸ではない」と。

 皆さん。彼らは、自分に与えられた苦しみの傷から逃げずに、その苦しみの傷とよ

く付き合って、自分の人生を感動の人生にさせたのです。

 それでは、どのようにすれば、私たちも感動の人生を送り、霊的に生きることがで

きるのでしょうか。

三、傷は祝福の下に置いておく(18)

 使徒パウロは18節で、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目

を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

と非常に肯定的な発想を教えて下さいます。このみことばからの適用として一つ提案

を致します。

 苦しい傷と仲良く付き合うために、あらゆる苦しい傷を神さまの約束である祝福の

下にもっていきましょう。苦しい傷を呪いの下に置いておき、そればかり見ていると、

とにかく苦しい傷から遠ざかりたい気持ちがいっぱいになって、自分の考えを祝福か

ら180度変えてしますことになります。苦しい傷を呪いの下に置いておくことは、何

でも上手くいかないのは、他人にはない自分だけの苦しい傷のせいであると考えてし

まう否定的な人生観を意味します。何でも「私はだめな人間です。」「もう仕方がな

い人間です。」と考えがちの人生観です。

 しかし、神さまに愛されて選ばれている子どもとしての祝福の道は、あらゆる苦し

い傷を呪いの影から引き出して、祝福の光の下におくことです。

 いくら小さくても呪いの影にある傷は、私たちを呪うことが出来ます。しかし、い

くら大きい傷であっても祝福の下にある傷であるなら、それは負いやすく、軽いもの

になります。

 イエスさまのことばです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの

ところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へ

りくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は

軽いからです。」(マタイの福音書11:28-30)

結論

 メッセージを終わりたいと思いますが、最も大切な教えは、神さまの祝福は苦しみ

の傷をとおして私たちに近づいてくるということです。これを正しく理解すればする

ほど、喜びと悲しみや、安らぎと苦しみは、ぶつかりあい対立するものではなく、神

の国を経験させるコインの両面のようであると悟ることが出来ると思います。

 皆さん。私たちは、傷ついた者です。それぞれの傷は、私たちを選び祝福して下さ

る神さまの光の下に持ってくることによって、その傷はダイヤモンドのように光輝く

ことが出来ます。ダイヤモンドの価値は、正八面体までに鋭く削られたその傷から出

る神秘的な光にあります。私達も傷を恐れず、むしろ感謝し、傷によって魂を磨かれ、

光輝く人生を誉をもって生きたいものです。これこそ感動の生き方、霊的に生きるこ

とです。

 あなたたちは、ダイヤモンドのような人生を生きる者であり、光の神さまから照ら

された輝く世の光です。


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