いのちをかけた祈り

(出エジプト32:30-35)   1999年3月7日(日)
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 先週、第4回目の日々のみことばの韓国研修会が恵みの中で終わり、主に感謝をい

たします。また祈って下さった皆さんにも感謝いたします。34人の方々が忠実に学び

得た研修会で、特に私自身が新たなチャレンジを受ける時となり、多くの学びの時に

もなりました。みことばの教えはもちろん、豊かな分かち合いの恵み、何よりも祈

りへの学びとチャレンジは大きなことでした。

 三日目に訪問した天摩山祈祷院は、18年間周囲の人々の反対にも関わらず一人の牧

師が祈り続け、今日の2000人収容の祈祷院をついに建設したことを伺いました。実は

反対を受けてもおかしくないほど道もない高い山の上で、水場も遠くて、環境的には

反対されて当然の所でした。しかし、一人の牧師の祈りは続き、立派な祈祷院は神さ

まから遣わされた人々の献身的な支えによって建設されました。私はそこで、祈りは

反対を大きく乗り越えて何らかの実を結ぶものであることを心に強く訴えかけられま

した。

 四日目の早朝には、19年前、30人の信徒が開拓して35,000人教会になっている明星

教会の特別早天祈祷会に出席させていただきました。一週間の特別早天祈祷会の期間

中には、約2万人が出席し祈っていました。以前、この教会で一度メッセージをした

ことがありますが、特別早天祈祷会には私もはじめての出席でした。この教会で、リ

バイバルは皆が心を一つにして祈ることであると訴えられました。このように今回の

研修会は、祈りの大切さを新たに学んだ貴重な恵みの時でした。

 帰国の前の晩、私はわが教会から参加された何人かの姉妹たちを集めてお願いしま

した。「恵みの時には必ず悪魔の働きもありますので、これから祈りましょう。恵み

が続けますように祈りましょう」と。教会において祈りはいのちです。もちろん個人

の信仰においても祈りは成長の秘訣です。

 今日は、イスラエルの指導者モーセによる祈りを学び恵まれたいと思います。

一、問題の発生(30)

 30節を一緒に読みましょう。「翌日になって、モーセは民に言った。あなたがたは

大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪

のために贖うことができるでしょう。」

 ご存じのように、イスラエル民は、指導者モーセがシナイ山に上り、神さまから十

戒をいただいている間、自分たちの偶像を造って拝む大きな罪を犯してしまいます。

偶像を造り拝むことを一番嫌われる神さまは、ご自分の民であってもイスラエルを裁

いたのです。モーセは厳しくイスラエル民に指摘しました。「あなたがたは大きな罪

を犯した。」問題を隠すより問題を明らかに指摘したのです。

 罪の意識が薄い今日の社会にもあらゆるところに厳しい指摘を必要とします。しか

し、他人の罪や過ちを指摘出来る勇敢な人が誰もいない時代になってしまいました。

他人のことに口を出すのは良くないと思うのがほとんどの人々の考えです。そのよう

な考えはこの社会が過ちのない社会だからではありません。人々の心のには、何より

も自分たちの過ちに人からの指摘があると困ると考えているからです。これは極端な

個人主義が及ぼした結果です。

 イスラエル民の罪に対するモーセの指摘は、人を責める単なる指摘ばかりではあり

ません。生じた問題を解決しようとする指摘でした。「それで今、私は主のところに

上っていく。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。」という彼

の言葉から理解出来ると思います。モーセの指摘は、問題を解決するための道でした。

罪に堕ちていたダビデ王を厳しく指摘した預言者ナタンの指摘がそうでした。神さま

の恵みを忘れていたイスラエル民を厳しく指摘した預言者イザヤの指摘がそうでした。

エルサレム神殿の再建の時、サマリヤ人の反対で失望しているイスラエル民に厳しい

指摘をした預言者ハガイの指摘がそうでした。これらの指摘は問題を責めたり、問題

を大きくするようなものではなく、生じた問題を解決させる神さまの導きでした。

 神の霊感によるものである聖書の働きには、教えと戒めと矯正と義の訓練とのため

に有益です。」(第二テモテ3:16)と教えていますが、その中に正しくさせる矯正

の働きが厳しい指摘であると思います。

 日々のディボーションの中でも恵まれるほとんどがみことばからの鋭い指摘です。

みことばによる矯正です。生じた問題は隠すより、ある意味で神さまの前に明らかに

して解決すべきです。

 日々のみことば韓国研修会でいつも感じることですが、韓国人クリスチャンの特徴

は自分の課題を良く持ち出すことだと思います。みことばによる指摘であるなら自分

の恥でも素直に分かち合います。ですから解決も早いと思います。日本の人々は、他

人の迷惑になることを気にしていつも遠慮がちのように見えます。それで分かち合い

の難しさを感じます。互いに持ち出す時にこそ真の祈りの課題が得られます。

二、いのちをかけた祈り(31-32)

 モーセは、民の罪ばかり指摘して自分は何もしなかった無責任の人ではありません

でした。きちんと責任を果たしていたのです。それは民のためにシナイ山に上り、神

さまにイスラエル民の赦しを祈ったのです。

 31-32節からです。「そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。ああ、こ

の民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、

もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんな

ら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってくださ

い。」モーセはの強烈な祈りです。いのちをかけた祈りです。ここで「あなたの書物」

と表現されてありますが、これは詩篇68:28とダニエル書12:1に書いてある「いの

ちの書」を指しています。いわば、この民の赦しがないなら、神さまの「いのちの書」

に書いてあるはずの自分の名前を消して下さいという、ある意味で自分のいのちをか

けて神さまに訴える祈りをしています。

 このような祈りは、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、

この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」

とローマ人への手紙9:3で使徒パウロもしました。

 神さまに訴える彼らの祈りは、強烈な民族主義からではなく、神さまによる御国に

対する確信があるから出来た祈りでした。いのちをかけるほどの大切な民のいのちが

かかった祈りの課題でした。

 私たちはどこにいのちをかけているでしょうか。自分の欲望にいのちをかけたり、

自分の顔を立てることにいのちをかけたり、朽ちている肉の体のためにいのちをかけ

たり、お金にいのちをかけたりします。未来の保障がない不安の時を過ごしている時

代だからだと理解はしますが、無駄なことであると思います。

 モーセは民の赦しと救いのために自分のいのちをかけ、祈りました。このように祈

りは抽象ではなく、理論でもなく、いのちをかけ神さまに訴える実践です。祈りはい

のちをかけるほどに闘う格闘技です。

 イエスさまが祈りを教えて下さる時、理論的に説明するより、自らの御からだで実

践して教えて下さいました。従って4つの福音書で祈りを名詞形で表現したのはたっ

た3回しか使っていませんが、「祈りなさい」と命令形で使った例は48回もあります。

祈りに対していくら話しても、それは祈りではありません。実際に与えられた課題を

持って、モーセのように、神さまに叫び求めるのが祈りです。

 モーセがいのちをかけて祈ったのは祈りの重さを知っていたからでした。祈りを聞

いておられる方が誰であり、その方に祈るとどんなことが起こるかも知っていたから

でした。皆さんは、自分の祈りを聞いておられる方がどんな方であるかをよく知って

いますか。また祈るとどんなことが起こるかも知っていらっしゃるでしょうか。

 祈りは神さまに悔い改める道であり、赦される道です。祈りは聖霊に満たされる道

であり、聖められる道です。祈りは新しい力を得る道であり、リバイバルの秘訣です。

祈りは信仰を成長させる道であり、悲しみを喜びに変える力あるものです。

 バルトン・バチャーという人の話です。「悲しみと苦しみに疲れていますか。祈り

しかありません。迫害を受け、いじめられていますか。祈りしかありません。不安と

心配があなたを苦しめますか。祈りしかありません。暗闇の使者があなたの家を襲っ

ていますか。祈りしかありません。」

 皆さん。いのちをかけることなら、叫ぶ

のも自然であり、いのちをかけることなら、人のことを気にすることもないだろうと

思います。モーセはより大きないのちのために、肉のいのちをかけました。祈りはい

のちをかけるほど価値のある闘いです。

三、約束の再確認(33-35)

 モーセのいのちがけの祈りに神さまの答えがありました。厳しい警告と約束の再確

認でした。厳しい警告の中でも神さまはモーセに答えて下さいました。「しかし、今

は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あな

たの前を行く。」

 答えのない祈りは祈りは一つもありません。必ず答えがあります。ヘブル11章6節

に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられ

ることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならな

いのです。」ここで「神に近づく者」というのは、神さまに祈る者と理解してもよろ

しいと思います。祈る時、必ず覚えることは必ず神さまが報いて下さることです。

 私は2年前から教会の納骨堂と祈りの場所を求めて神さまに祈ってきました。誰も

反応する人はいませんでした。ある方は、ほとんどの信徒がお墓を持っているので、

納骨堂の祈りはいらないとアドバイスまでしてくれました。その間、愛する兄弟たち

がなくなりましたが、彼らを休ませる納骨堂はないので、それぞれ他の教会の納骨堂

にお世話になるしかありませんでした。しかし、主は私の祈りをかなえて下さいまし

た。先月の役員会の話によって、富士山の入口ですが御殿場の競売の別荘地入札に応

札しましたが、結果落札させていただきました。317坪の別荘地に安い金額377万円で

落札させていただいたのです。これから立派な建物を建てて多くの人々に神さまを証

ししたいと思います。

 祈りは必ず答えられます。祈りは理論ではなく、いのちがけの実践の叫びです。今

年、この教会で生ける神さまのお働きに大きく期待しましょう。みことばに導かれて

徹底的に祈りましょう。そして、年末には沢山の証しを分かち合いましょう。

 多くのたましいが救われることを大きく願う、21世紀に向かう教会になりましょう。


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