中学卒業の時だと思いますが、皆でアンケートを取り合ったことがありました。その中でいつも取り扱った質問が一つありましたが、それは「もしあなたが今晩避けら
れない死を迎えるなら、今から何をしますか。」という質問でした。いかがでしょう
か。この質問をとなりの方にお互いに聞いてみませんか。
さて今日のテキストは、ユダヤ人の過越の祭りが近づいたある日に行われたイエスさまのわざですが、五つのパンと二匹の魚の話しであまりにも有名なので皆さんも良
く知っておられる聖書のお話だと思います。
聖書に記されたこの出来事をまとめてみますと、五つのパンと二匹の魚で5千人が満
腹し、なお残ったパンを集めると12のかごに余るほどだったこの奇跡は、ユダヤ人の
過越の祭りが近づいたある日に、イエスさまによって行われたことと、名前も知られ
ていないある少年によって捧げられた五つのパンと二匹の魚が人々に欲しいだけ分け
与えられた出来ごとでした。
ユダヤ人の過越の祭りは神の恵みによってエジプトの奴隷から解放されたことを記
念する日で、彼らにおいて最大の喜びの日であり、救いの日であります。その記念日
が近づいてきたある日、その記念日の主人公であられるイエスさまが、真のパンとし
てこのわざを行われたのです。そのわざはある少年により捧げられたものが分け与え
られることによって実現したのです。
ここで私たちは、イエス・キリストの分け与えるわざの深さをよく悟るべきだと思
います。分け与える行為は、慈善団体やボランティア活動としての理解ではなく、キ
リストによって生きる、霊的に生きることとして理解すべき課題であると思います。
今まで語った「霊的に生きる」という三回のメッセージを覚えていらっしゃるでしょ
うか。霊的に生きるために先ず、自分が創造主・神さまに選ばれた者であると自覚す
べきこと。次に、霊的に生きるために、自分が創造主・神さまによって祝福された者
であると自覚すべきこと。第三に、霊的に生きるために、自分が創造主・神さまに選
ばれ、祝福された者であるにもかかわらず傷ある者であることを自覚すべきこと。こ
れら三つの自覚のある人なら、イエス・キリストの分け与えるわざの深さをよく理解
出来ると思います。それは分け与える行為によって、選ばれた自分、祝福された自分、
傷の中にも生かされている本当の自分を確かめることが出来るからです。これは約束
された神の民の中で、分け与える行為によって神の救いが実現されていく、すなわち
目に見えない神の国が目に見えることが出来るわざとして現れることです。
簡単に申しあげますと、分け与える行為は他人のために生きることです。「他人の
ために生きる」と言われると非常に息苦しさを感じる個人主義の現代社会ですが、し
かし、私たちは与えられる喜びより、他人に分け与える喜びが真の喜びであることを
経験してきました。
10ヶ月も苦労したにも関わらず、難産で生まれた赤ちゃんにお母さん方はすべてを
惜しまず分け与えます。赤ちゃんに良いことであるなら何でもやります。子育ての大
変さはお母さんでないとよく分からないと思いますが、どんな苦労も、明るい赤ちゃ
んの笑顔を見ているお母さん方は子育ての大変さをすぐ忘れ、むしろ幸せを感じます。
これは素晴らしいことです。私たち人間の最大の完成は、自分を他人のために分け与
えることから生まれるものであると思います。時々人々は何かを得るために他人に与
えるように見えます。しかし、人間の中には認められたり、誉められたり、立てても
らいたいという願いの裏には、分け与えようとする純粋な気持ちも隠れてあると思い
ます。
少年の時でしたが、我が家は二度も火事にあい、急に貧しくなってしまいました。
そのような中でも家族を支えるために一番苦労したのは私の母でした。当然節約の生
活は家族を苦しめましたが、信仰深い母の知恵で支えて来れたのも神さまの恵みであ
ると思います。賢い節約を続けた母のお陰で、私が大学を卒業した頃からは少し余裕
が出てきました。しかし、余裕の中でも母は節約が慣れたせいか、なかなか物を他人
に分け与えるず、むしろ家に積み上げる方が多いように見えました。決してケチでは
ないのですが、節約する気持ちが人に分け与える気持ちに勝っていたのだと思います。
しかし、末子である妹の結婚の時、母は完全に変わってしまいました。今まで節約し
ていたすべてを妹にあげたのです。分け与えることだけではありません。借金までし
て与えてしまいました。家族は皆反対し不満でしたが、母は非常に喜び、満足な笑顔
でした。当時の私は理解出来なかったのですが、今は理解出来ます。
極めて競争的であり、欲望的である現代社会に暮らし、分け与える喜びを失った現
実を見るのは誰でも疲れやすいのは当然だと思います。私たちは時々自分の手に握っ
ている財産が幸せを運んでくれると錯覚しています。しかし、財産を所有したから真
の幸せを得られたと言う人はなかなかおりません。真の喜び、幸せ、内面の平安は自
分自身を他人のために分け与える実際的な行動から生まれてきます。幸いな人生とい
うものは他人のために自分自身を分け与える時こそ味わうことが出来ます。
それでは、分け与えるために何をどのようにすればいいのでしょうか。ご一緒に考
えてみましょう。二つの面をあげたいと思います。
それぞれに与えられた人生、生き方こそ、お互いに対して分け与える素晴らしい贈り物になります。神さまから預かっているそれぞれの賜物は、ある意味で私たちのあ
る行動より私たちがどのように生きているかということだと思います。これは私たち
がお互いのために分け与えることは何なのか、という課題ではなく、私たちがお互い
のためにどのような人間になれるか、という課題です。隣の人のために助けるのは素
晴らしいことです。相談に乗ってあげたり、食べさせたり、物をあげたり、痛みを分
かち合ったりするのは確かに素晴らしいことです。しかし、これらよりもお互いのた
めにもっと素晴らしいことがあります。それは自然に現れてくる自分たちの生き方です。
イエスさまが12人の弟子を選ばれたのは、何よりもご自分とともに生きる人格を選
ばれたということでした。マルコの福音書3章14節に「そこでイエスは十二弟子を任命
された。それは、彼らを身近に置く」ためでした。もちろん15節に続けて「また彼ら
を遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」と書い
てありますが、イエスさまの弟子作りは何よりも一緒に過ごすためでした。一緒にい
ることこそお互いに大きな励ましを与えます。
私はまだ若いのですが、年をとればとるほど、他人に分け与えるものを自然に吹き
分ける自分の生き方になっていると思います。聖書の中には年をとった多くの人々の
名前が出てきます。ルカの福音書2章36節にはアンナという84歳のおばあさんが記され
ています。彼女は結婚して7年後にはやもめになり、その後長い間さびしい生活を続け
ていました。しかし、アンナおばあさんは「主の宮を離れず、夜も昼も、断食と祈り
をもって神に仕えていました。」それはエルサレムの贖(あがな)いであるキリスト
を待ち望む生き方、そのものでした。アンナおばあさんの生き方のすべては神さまに
よる賜物のように見えます。そして賜物としての彼女の生き方が今日の私たちまでに
分け与えられているような気がします。彼女の生き方は今日の私たちに励ましと希望
を分け与えます。
私は知的障害者たちと暮らしていたハーバード大学教授ヘンリ・ナーウェンの話し
を思い出します。「人々から、いや家族からも捨てられ、施設に預けられている彼ら
にも人々に分け与えるものがありました。散らされた家族関係で苦しんでいるビル兄
には、私が経験していない友情の賜物がありました。言語障害者であるリンダ姉には、
笑顔で人を迎える賜物がありました。人に助けられないと歩くことも、食べることも
出来ないアダム兄には、助ける人に平安を分け与えました。分け与えることが出来な
い人は一人もいません。」
使徒の働き2章44節をみますと、聖霊に満たされていた初代教会の信徒たちは「みな
いっしょにいて、いっさいの物を共有にしていました。そして、資産や持ち物を売っ
ては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していました。」おそらく分け与えるこ
とは彼らの生き方、そのものでした。
クリスチャンにおいて死は決して恐ろしいものではありません。むしろ、死を通して分け与える立派な恵みを完成させることが出来ます。私たちの意識の中には死に対
して考えたくも、口にしたくもないタブーがあります。このタブーの意識が良き死を
迎える準備を妨げるものになっているのは事実です。見えないベルトコンベアに流さ
れているこの社会は家族が死んでも悲しむ時間さえくれない冷たい社会になってしま
いました。この社会は重大なことが起きても何も起こっていないようなふりをして忠
実に働くように教えています。
しかし、創造主・神さまに選ばれ、祝福された者として、また分け与えるために傷
も預かっていることを知っているクリスチャンであるなら、自分の死は逃げたり恐れ
たりするものではなく、皆に分け与える絶好のチャンスであり、分け与える最後のチャ
ンスす。
五つのパンと二匹の魚を分け与えたイエスさまは、いよいよご自身のからだを分け
与える時を迎える本当の過越の祭りの日を迎えられました。12人の弟子たちを集め、
最後の晩餐をもちました。「イエスさまはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟
子たちに与えて言われました。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになりました。『みな、
この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人の
ために流されるものです。』」(マタイ26:26-28)とおっしゃったことばの通り、イ
エスさまの最後は皆の贖いの代価として分け与えるための十字架の死でした。
死は決して終わりではありません。イエスさまの死は弟子たちに、深い新たな交わ
りにを迎えさせたことを私たちに教えています。弟子たちはイエスさまが自分たちか
ら離れた後、やっとイエスさまのお言葉の本当の意味を理解することが出来たのです。
このようにクリスチャンの死は新たな交わりを分け与える恵みです。
いくら立派な人生であっても、死んだ彼の回転椅子には他の人がすぐ代わって座り
ます。一生涯積み上げた財産も他の人がすぐ享受すると思います。分け与える準備な
しに死を迎えてしまう方々は悔しい奪われる経験をすると思います。
皆さん。この地上に生きる時間がどの程度残っているのかを考えたことがあります
か。分け与えることは、沢山の実りを結ぶために死んで行く一つの種と同じでありま
す。死は決して終わりではありません。素晴らしい収穫のために人生最後を分け与え
るビックチャンスであります。
イエスさまはヨハネの福音書12章24節でおっしゃいました。「まことに、まことに、
あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのまま
です。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
私たちは、イエスさまのように十字架にかけられ死ぬことは出来ません。しかし、
イエスさまの十字架を仰ぎ見る時、どのように生きるべきであり、どのように死ぬべ
きであるかを教えられます。そして、分け与える立派な死を迎えるため、霊的に生き
ることが出来ます。
分け与えない学びは人を高慢にします。分け与えない財産は家族喧嘩に火をつけま
す。分け与えない人生はさびしい死を迎えます。分け与えない信仰は行いのない死ん
だ信仰になります。分け与えない教会は腐った魚を売る悪い店のようです。分け与え
ない人間は人間の資格を失ってしまいます。
皆さん。私たちの体は数年の間に、順番なしに棺に入り、火葬されるか、土葬され
るのだろうと思います。いつかはこの地上から忘れ去られてしまう人生になります。
しかし、分け与える霊的な人生はキリストとともに永遠に続く豊かな実りを楽しむこ
とを確信致します。
それでは、初めにお尋ねした「もし、あなたが今晩、避けられない死を迎えるなら
今から何をされますか。」という質問を自分たちの心に向かって静かに答えてみて下
さい。
私は夢を見ています。分け与える私の人生によって5千人の人々が満腹し、余りが12
のかごに一杯になるほど残すこの日本での夢です。この夢が皆さんにもありますよう
に、心から切に祈りたいと願います。
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