今日は、棕梠(しゅろ)の主日、または枝の祝日と言います。イエス様が苦しみを受けるためにエルサレム神殿に上られたことを記念する日です。主イエスさまは、オ
リーブ山の東南側にあるベテパゲ、ベタニヤの村のあたりまで来られると、向こうの
村に誰も乗ったことのない「ろばの子」がいるからと、弟子たちに引いてこさせ、そ
れに乗ってエルサレムに入城されました。人々は自分たちの上着を道に敷き、また葉
のついた枝(棕梠、またはナツメヤシと言われる)を敷き、手に持って振りながら
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われら
の父ダビデの国に。ホサナ。いと高きところに。」(マルコ11:10)と歌い、イエス
様を大歓迎しました。
ローマ軍を追放して独立国ユダヤを達成するためにメシヤを期待していた民衆は、
熱狂してイエスさまを迎えたのですが、それにしても「ろばの子」とはあまりにも貧
しい姿ではありませんか。数日後、群衆の声は大きく変わっていきます。自分たちの
期待に応えなかったことで「十字架につけて殺せ」というののしりに変わってしまい
ました。それから、イエスさまの苦しみが始まり、最後の一週間を迎えます。
四福音書を見ますと、この最後の一週間のイエスさまの行動とことばがとても大切
に扱われ、その執筆の最大の関心事だったことと思われます。四福音書はそれぞれ、
かなりのページを用いて受難週を描きました。マルコの福音書は全章の四分の一、ヨ
ハネの福音書は三分の一を受難週という枠組みの中でイエスさまをあかししています。
なぜでしょうか。それはイエス・キリストの受難こそ、私たちの救済であり、福音で
あるからです。
さて、今日は、イエスさまの受難の最後の出来事である十字架について学びながら
恵みを分かち合いたいと思います。
31節の「その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折って
それを取りのける処置をピラトに願った。」と書いてあるこの言葉は、何よりも歴史
的な事実を素朴に伝えています。この後の章にも記されてありますが、「死体、十字
架、兵士たち、目撃した者、二人の強盗のすねを折ったこと、イエスのわき腹を槍で
突き刺したこと」などは、歴史上の事実であることを伝えています。同時に、私達の
福音的な信仰は、このような歴史的な事実に基づいています。
これは哲学でもありませんし、心理学でも、ある人の悟りでもありません。これは
神さまが人間の歴史の中で行われた事実のわざです。これは、あの苛烈な記憶になっ
た、1945年に長崎と広島の原爆投下によって日本が敗戦した事実と同じ歴史上の事実
です。
今日、事実に基づいているこの聖書の福音を哲学や思想のようにかたちを変えて教
えようとする神学の運動が大きく起きています。ヨーロッパで盛んな「福音の非神話
化(demythologizing of the Gospel)」という神学ムーブメントがあります。彼ら
は事実についてはあまり大事なことではなく、ただ聖書の福音から得られる教えのみ
が大切だと言っています。それで彼らは、神さまは愛であり、惜しまず何でも私達を
赦して下さることが大切だと言っています。そして私達がしるべ帰庫とは神の憐れみ
と赦しのみだと言っています。
しかし、使徒ヨハネは、事実なしにはキリスト教信仰を語ることも、成り立つこと
も出来ないと証言しています。皆さんがこの教会に来られてキリスト教の信仰を持た
されたことには、このような歴史的な事実によるものであることをしっかりと覚える
べきです。
この世の中に事実よりも大切なことはありません。もしイエス・キリストの十字架
の話しが昔話や人間の想像により作られたことであるなら、私達の信仰はむなしいの
です。この講壇で作り話を語るこの牧師は、最も悪質な人間になります。使徒パウロ
も第一コリント15章19節で「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を
置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」と語りまし
た。
皆さん。私達の信仰は歴史的な事実に基づいています。もし、皆さんの中に「聖書
がどのように言っても関係ない。私は私なりに体験があります。」と言う方がいらっ
しゃるなら考えを直して下さい。どうしてもそのように信じたいなら仕方ありません
が、それは絶対にキリスト教の信仰ではありません。
キリスト教の信仰は、使徒パウロがエペソ教会教えたとおり「使徒と預言者という
土台の上に建てられており」ます。すなわち歴史上の事実に基づいて成り立っていま
す。今、私達は使徒ヨハネが証言する歴史上の事実を聞いているわけです。
それでは、歴史的な事実の意味、すなわち、使徒ヨハネを通して伝えようとする聖
書のメッセージを学び、恵まれたいと思います。皆さん、なぜ、ヨハネがイエスさま
の受難を詳細に記録したと思いますか。32節からですが、「もう一人の者とのすねを
折った。」とか、「しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられ
るのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエス
のわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」とかを、なぜこ
と細かく記したのでしょうか。そこには二つの意味があると思います。
キリスト教の初期には沢山の偽教師による異端的な教えがありました。彼らはイエス・キリストに敵対して、十字架と復活の福音を強く否定していました。イエスは十
字架で死んでいないと語り、ただイエスは十字架で失神し、弟子たちがイエスの体を
十字架から降ろした時、イエスは回復したと伝えました。
使徒ヨハネはこのような敵対者たちに向けて、イエスさまに起きた事実を詳細に書
いたのです。「しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるの
を認めたので、そのすねを折らなかった。」という証言は、イエスは失神したのでは
なく、事実死なれたことを伝えています。
また36節の「この事が起こったのは、『彼の骨は一つも砕かれない。』という聖書
のことばが成就するためであった。」と記されたことばの重要さです。預言である
「聖書のことばが成就する」という表現は、特にキリストの死に対して用いられてい
ます。
歴史的な預言を知っているユダヤ人であるならば、『彼の骨は一つも砕かれない。』
という聖書のことばの意味をよく知っているはずです。ユダヤ人最大の祭りである過
越の祭りはエジプトからのユダヤ民族の救済の歴史ですが、最初の過越の歴史は出エ
ジプト記12章に記してあります。そこには羊を食べる時の注意事項が書いてあります
が、46節に「その骨を折ってはならない。」という神さまの預言がありました。これ
は、これからあなた方に来られる真のメシヤの姿もあなた方のために死ぬが骨を折ら
れることなく死ぬと、はっきり示す神さまの預言でした。
ユダヤ民族の救済のために捧げられた過越の羊はメシヤの模型であり、影であり、
預言そのものでした。この預言は詩篇34篇20節にもあります。「主は、彼の骨をこと
ごとく守り、その一つさえ、砕かれることはない。」皆さん。聖書の預言がこのよう
に成就されたことがなぜ大切でしょうか。これに対して、多くの答がありますが、何
よりも私たちの信仰の根拠が聖書に基づいているからです。信仰のために聖書を知る
ことより大事なことはありません。
聖書の預言が成就されたことを通して、神さまのご計画とみわざが確実であること
を確かめることが出来ます。イザヤ53章は苦しめられるメシヤを預言しています。神
に打たれ、苦しめられるメシヤが預言されています。ほふり場に引かれて行く子羊の
ように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように苦しめられるメシヤが預言されて
います。しかし、ユダヤ人たちは力強いメシヤを求めてイザヤの預言を大事にしませ
んでした。ところが、パウロは聖書の預言の通りキリストが苦しめられたことを預言
の成就として証ししたのです。
使徒ヨハネの証言の中で、もう一つのしるしは、十字架からイエスの体を降ろした
とき、二人の強盗とは違って既に死んでいたことでした。まだ生きていた二人の強盗
のすねは折られました。しかし、イエスさまの死体は兵士たちによって確認されたの
です。兵士たちがとどめを刺す前にイエスさまは死んでおられました。それで、兵士
たちはイエスの足を折る必要がなかったのです。どうしてイエスさまは強盗より先に
死んだのでしょうか。
この質問に対する答は34節にあります。「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を
槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」私たちはヨハネのこの証言
から、より具体的なイエス・キリストの死について知るべきです。
「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」ここで「血と水が出てきた」と言うことばに目を留めて下さい多く
の医療者たちの証言によりますと、人間の体から血と水が分かれて出てくるのは心臓
が破れたときだと言われています。イエスさまの心臓が破れ、おなかには血がたまっ
ていたと思います。ご存じのように、血液には赤血球や白血球などと水分が一緒にな
っています。イエスさまのおなかにたまっていた血液は時間とともに水と血の固まり
に分かれていたと思います。それでわき腹を刺されたとき、水と血の固まりがそれぞ
れ出てきたのでしょう。
ところで、そうしてイエスさまの心臓が破れたのでしょうか。イエスさまに何が起
こり心臓が破れたのでしょうか。私はイエスさまが御父神さまから捨てられた十字架
の上でのことばを思い出します。十字架のイエスさまは大声で叫ばれました。「エリ、
エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てに
なったのですか。」という意味です。神のひとり子として来られたのに、御父に捨て
られるのは信じられないことです。耐えられない苦痛と緊張と悲しみがイエスさまの
心臓を破ってしまいました。ヨハネは聖霊によってこのように詳細に出来事を書き記
すことが出来ました。イエスさまの心臓が破られたことによって、実は私たちの信仰
の土台がなんであるかが分かります。
イエスさまは過越の子羊になられました。神さまは十字架で子羊イエスを殺しまし
た。その代わりに私たちを赦し、癒して下さったのです。なぜ神さまがこのような残
酷なことをなさったのでしょうか。これは私たちの頭ではとても理解出来ないナゾで
した。
しかし、聖書の答えは明確です。ローマ人への手紙3章23節に「すべての人は、罪
を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」とあり、そのために「罪から来
る報酬は死です。」と教えています。(ローマ6:23)。一方、神さまには、テモテ
への手紙第一2章4節に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望
んでおられます。」とおっしゃる愛の方です。罪のさばきである死と神の愛の救い、
その両方を満たす方法はご自分のひとり子を十字架に架けるほかありませんでした。
ですから、神さまにおいて、ご自分の義と愛を満たすためには十字架の道しかあり
ませんでした。そういうわけで、私たちにも十字架のイエス・キリスト以外には救い
の道はありません。
愛する皆さん。私たちの罪の代わりに心臓が破れるほどすべてを捧げて下さったイ
エス・キリストの尊い血潮をどれほど黙想していますか。自分自身の信仰の土台をし
っかり確かめてみましょう。現代人は血の話しに対して、野蛮な時代の出来事のよう
に受け取るかもしれません。しかし、イエス・キリストの血潮によって救われること
を知っている私たちクリスチャンは十字架を誇りにします。
皆さん。今まで十字架をどのように思っていましたか。
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