主が望んでいたこと

(ルカ22:14-22)   1999年4月18日(日)
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 聖餐は洗礼とともにキリスト教会の礼典であって、みことばとともに恵みの手段を

形成すると言われています。「礼典は、神が直接制定された恵みの契約のきよいしる

し、または印証であって、キリストとその祝福とを表し、キリストにある私たちの権

利を確認し、また教会に属する者とこの世の者との間に見える区別をつけ、かつまた

神のみことばに従って、キリストにあって神への奉仕におごそかに彼らを従事させる

ためのものである」(ウェストミンスター信仰告白27:1)と説明することが出来ま

す。簡単に申しますと、礼典は行ける神さまのご臨在の表れと言えます。

 洗礼は、信じ悔い改めた者が、罪を赦されてキリストのからだなる教会につながる

礼典で、信徒にとって一度限りであるのに対し、聖餐は、洗礼の約束に立ち、教会の

交わりのうちに祝され、信徒が継続的にあずかる礼典です。

 ですから、クリスチャンであるなら継続的にあずかるべき礼典としての聖餐の意味

を正しく知ることはとても大切です。それでは、今日のテキスト、ルカの福音書22章

から主イエスさまが望んでいたことを学び、ともに恵まれたいと思います。

一、過越の食事をすること(15)

 弟子たちに言われた主のことばである15節を読んでみましょう。「イエスは言われ

た。『わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事を

することをどんなに望んでいたことか。』」

 7節から13節までの箇所を見ますと、過越の食事の用意をしたのはイエス様ご自身で

した。ここでイエス様がどれほど、弟子たちと一緒に過越の食事をしたがっていたか

が分かります。

 過越の食事とは何でしょうか。ご存じのように、イスラエルの民が430年間エジプト

での奴隷生活から神さまの恵みによって解放されたとき、イスラエルの民が神のこと

ばに従って、子羊をほふり、種なしパンを食べた食事のことでした。過越の食事は単

なる食事とは違いました。出エジプト記12章を見るとよく分かると思いますが、過越

の食事は神さまの示しによって用意された食卓であり、イスラエルの民が救われるた

めに子羊がほふられた食卓でした。また、ほふられた子羊の血は食べる家の入口の二

本の柱とかもいに塗られ、救いのしるしとなりました。食べるときは「腰の帯を引き

締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べ」たのです。その日、神さまに

よる滅びの災いが下りました。すべてのエジプト人の家にいる初子は滅びました。し

かし、神さまの約束通り、子羊の血を塗っていたイスラエルの民の家には滅びの災い

が及ばなかったのです。そして、長かった430年間の鎖につながれた奴隷の歴史は終わ

り、イスラエルの民は救われ、解放されたのです。そして素晴らしい約束の地への旅

が始まります。

 「苦しみを受ける前に」すなわち、十字架の滅びを受ける前、主イエスさまはご自

分の弟子たちと一緒にこの過越の食事を食べたかったのです。それは過越の食事のた

めにほふられた子羊のように、もうすぐ十字架でほふられるご自分のことを示そうと

する大きな奥義があったからでした。16節のことばですが、地上での過越の食事はこ

れで終わりでした。もうすぐ、十字架ですべての神の救済が完了されるからです。

二、互いに分けて飲み食いすること(17-20)

 ところが、主が望んでいた過越の食事は、少し違う内容で行われました。子羊の代

わりにご自分のからだを表すパンを裂いて渡されました。また子羊の血の代わりにご

自分の血潮を表すぶどうの杯を渡されました。そして主は言われました。「これを取っ

て、互いに分けて飲みなさい。」「あなたがたのために定められる新しい契約である」

 ここで弟子たちは主から渡された主のパンとぶどうの杯を分けて飲み食いしました。

弟子たちは同じ主のみからだにあずかったわけです。この食事は以前預かっていた主

のことばであるヨハネの福音書6章54-56節を思い起こさせました。「わたしの肉を食

べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にそ

の人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物

だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、

わたしも彼のうちにとどまります。」

 主のからだと血潮を飲み食いすることは、イエス・キリストと一つになることであ

り、一緒にあずかる主の弟子たちである私たち皆が一つであるというしるしです。私

が主イエスさまと一つとなり、皆と一つになることはとても深い奥義が隠されている

教えです。

 主イエスさまと一つになることは、まずアダムの時からサタンの誘惑によって失わ

れた神のかたちが回復される素晴らしい恵みを意味します。また、一緒に聖餐にあず

かる皆と一つになることは、この地上を離れた主イエスさまが、一つになっている私

たちに残して下さった神の国の建設への使命です。それで主イエスさまは、最後の晩

餐である過越の食事を済まされてから、一緒に食事をしていた弟子たちを連れてオリー

ブ山へ出かけていかれたのです。

三、オリーブ山へ出かけていくこと(マタイ26:30、マルコ14:26)

 オリーブ山は苦しみが待っているところでした。オリーブ山は十字架が待っている

ところでした。オリーブ山は裏切る者が待っているところでした。一緒に聖餐をあず

かっていた弟子たちがそこで見ているうちに、イエス様は逮捕され連れていかれたの

です。しかし、イエス・キリストさまにおいてオリーブ山は、御父から派遣された使

命の地であり、すなわち御父から示された宣教の地でした。

 主の晩餐にあずかる私たちは、パンとぶどうの杯を飲み食いする恵みのみで留まら

ず、聖餐を与えて下さったイエス・キリストさまが望んでいた御心を正しく理解して、

出ていくべきオリーブ山、すなわち私たちに示された宣教の地へ出ていくべきです。

そこに苦しみが待っていても、そこに十字架の死が待っていても、主の聖餐にあずか

る神の者として出ていくべきです。

 みことばは私たちの霊性と知性に語られたのに対し、聖餐は私たちの身体そのもの

に与えられる「見えるみことばである」と言われます。また飲み食いの行動で受ける

ことで「行動的みことばである」とも言われています。

 それで、主の聖餐にあずかることは、二つの面で理解が出来ます。一つは、消極面

として「罪の赦し」です。もう一つは積極面として「義とされ、神の子とされる」こ

とです。それは神さまの祝福の「相続人」になることです。その相続は主とともに行

動する宣教のわざを通して再びあずかる祝福です。

 今日、主の聖餐にあずかる私たちも、飲み食いの交わりの恵みに留まらず、それぞ

れが示された宣教の地へ、積極的に出ていくべきです。示された家族へ、示された学

校へ、示された会社へ、示された働き場へ、示された世界へ、積極的に出ていくべき

です。

 聖餐を与えて下さった主は言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、い

つも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

 この一週間も派遣された皆さんの宣教地で主とともに勝利しますように祈ります。


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