立派な信仰の持ち主に見えるある兄弟の話しですが、最近彼がとても疲れているようです。この兄弟が疲れているのは信仰に疑いが生じたわけではありません。赦され
た主の恵みを信じることが出来ないわけでもありません。イエスさまが生きておられ
ることを信じられないわけでもありません。兄弟が疲れている理由が一つあるとする
なら、自分の内側から信じる信仰と自分が行う実生活とのズレがとても激しいという
ことでした。教会でみことばのメッセージを聞く時は喜びの確信に満たされました。
しかしその喜びが実生活の現場においては何も力になりませんでした。現実には信仰
が通じない厳しい環境ばかりで、また失敗ばかりの自分しか見えないことで、がっか
りして疲れていると思えるのです。
この兄弟が疲れているのは、イエスさまが死からよみがえられたと信じることが出
来ないからではありません。問題は、生きておられる主イエスさまと現実の自分とは、
何の関係もないように感じていることでした。よみがえられた主は素晴らしく、全能
なる方ですが、しかしこの兄弟自身は何にも出来ないくだらない人生のままでした。
実は、この話しはこの兄弟だけの話ではないと思います。私たち皆の話であると思
います。イエスさまは確かに死からよみがえられました。しかし、よみがえりのイエ
スと、日々の生活に失敗ばかりの私たちの信仰とは、何も関係がないように思われま
す。どうしてでしょうか。
今日のテキストのみことばから学びましょう。テベリヤの湖畔はガリラヤ湖の別の
名前ですが、イエスさまが弟子たちと初めにお会いして彼らを召したところでした。
過越の祭りのためにエルサレムへ上っていたイエスさまの弟子たちは、祭りが終わっ
たのでガリラヤに戻りました。エルサレムへ上る時はイエスさまと一緒だったのです
が帰る時は彼らだけでした。エルサレムへ上る時は沢山の望みを持ってイエスさまと
ともに上りました。しかし帰りはイエスさまなしで彼らだけでした。たった一ヶ月間
でしたが、彼らが見てきたことは思いもよらないことばかりでした。何の罪もないイ
エスさまが十字架に殺されたことや聖書の預言の通りイエスさまが三日目によみがえ
られたことなどでした。また、よみがえられたイエスさまに二度もお会いしたことで
した。しかし、帰りは彼らだけでした。
ガリラヤに戻ったシモン・ペテロはじめ7人の弟子たちは、自分たちが召された場所である湖の岸辺で、これから何をしたらいいか考えていたらしいのです。そこには死
からよみがえられたイエスさまのからだを直接さわってみたトマスもいました。
ペテロが「私は漁に行く。」と他の弟子たちに言いました。弟子たちのかしらだっ
た彼の話しは皆に通じました。「私たちもいっしょに行きましょう。」皆がすぐ一致
しました。彼らは3年前主イエスさまに召され、舟も網も何もかも捨てて、イエスさま
に従っていたのに、一瞬昔の自分たちの姿に戻ってしまいました。「これから後、あ
なた方は人間をとるようになるのです。」とおっしゃった主の召しを一瞬忘れてしまっ
たのです。
おそらくペテロは覚えているはずです。自分たちが召された時のことです。ルカの
福音書5章に書いてありますが、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれ
ませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そのとおりにする
と、沢山の魚が入り、網は破れそうになりました。そこでシモン・ペテロは、イエス
さまの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深
い人間ですから。」と告白したのです。それからペテロは主に召され、人間をとる主
の弟子になったのです。しかし、ペテロは昔のままの姿に戻ったような気がします。
ペテロが魚を取りに出かけたことに対して、いろんな推測は可能ですが、彼らの立
場から現実的に考えてみましょう。今までイエスさまが自分たちのすべての食べ物を
満たして下さいましたが、たったこの一ヶ月間で彼らの環境は変わってしまいました。
誰も彼らに食べ物を与えてくれませんでした。ペテロが「魚を取りに出かけるっ」と
言った時、皆がついて行ったことをみますと、主の弟子である彼らにも日々の糧への
心配があったようにみえます。イエスさまは死からよみがえられました。素晴らしい
勝利でした。しかし、それはイエスさまの勝利で、決して弟子たちの勝利ではありま
せんでした。それは主の勝利で、彼らにはこれからの食べることがもっと大切な現実
の課題でした。
私たちも真面目に信仰生活をしていますが、もし職場から首になったら、すぐ思い
浮かぶことは、「これから何をして食べて生きようか」と思うでしょう。このように
現実的に話してみると信仰とはブルジョア的でくだらないもののように感じられます。
食べることは現実にはとっても大切です。
それでペテロは魚を取りにガリラヤ湖に再び出かけたのです。しかし、残念ながら
魚は一匹も取れませでした。夜明けまで頑張ってみましたが、結果は空っぽの網を持
ち上げる苦労ばかりでした。不思議に自分たちが主に召されていたその夜の光景と全
く似ていました。どうしてでしょうか。
わずか一ヶ月間前まで主イエスさまと共にいた信仰と、今自分たちだけが残ってい
る現実はあまりにも違っていたので自分たちも驚くほどでした。なぜでしょうか。ど
うして信仰者である主の弟子たちがこのように変わってしまったのでしょうか。
それは彼らの意識の中でイエスさまはよみがえられましたが、自分たちから離れて
しまったと諦めていたのです。分かりやすく言い換えると、イエスさまが自分たちの
目に見えないと自分たちのために何も出来ないと勝手にあきらめていたのです。信仰
者でも現実に執着するとこのようになります。それで自ら何かをしないといけないと
思い、主とともにする信仰は後回しにして現実的な生活のことに熱心になりました。
しかし結果は空っぽの網を持ち上げる苦労ばかりで終わるでしょう。
もう疲れた弟子たちが魚を取るのをあきらめた夜明けの時、よみがえられたイエスさまは再び弟子たちのところに現れました。そして「子どもたちよ。食べる物があり
ませんね。」と話しかけました。
聖書の中で神さまが人を呼ぶ時、いろんな呼び方を用いておられることが分かりま
す。旧約でご自分の民に呼びかける時も、不従順の時には「ヤコブよ」、従順した時
には「イスラエルよ」とかけられました。かけられたことばの音声にはイントネーショ
ンが必ずあるはずです。記録された聖書を読む私たちには、かけられた神さまのこと
ばのイントネーションまで理解するのはとても無理かもしれません。
神さまの呼びかけの中には、深い意味があります。「アダムよ。あなたは、どこに
いるのか。」この呼びかけはアダムがどこにいるか分からないからではありません。
アダムを目覚めさせる呼びかけでした。「モーセ。モーセ。ここに近づいてはいけな
い。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」これ
は、ご自分の約束の民を導くために人を立てる神さまの呼びかけでした。「サムエル。
サムエル。」これは、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった暗闇のイス
ラエルを救い出すために、人を召される呼びかけでした。「サウロ、サウロ。なぜわ
たしを迫害するのか。」これは、迫害者サウロを悔い改めさせる主の呼びかけでした。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」これは、召しの再確認の呼び
かけでした。ところが、今弟子たちは「子どもたちよ。」と呼びかけられました。
本当に弟子たちは子供になっていました。自分たちの目の前に母親が見えないと、
すぐ泣いてしまう子供たちと同じでした。彼らはイエスさまが自分たちの目に見えな
いので、食べ物やこれからの人生を自ら心配していました。イエスさまがよみがえら
れても弟子たちは自分たちの生活とつなげて考えることが出来ませんでした。「食べ
る物がありませんね。」と問われても気付かず無駄な苦労ばかりする愚かな子供になっ
ていました。イエスさまから罪赦されたことは信じるが、これからどのように生きる
かについての課題には恐れる子供たちでした。現実に執着し過ぎたあまり、彼らは霊
的に子供になってしまいました。
4節を見ますと、イエスさまが現れても彼らは気が付きませんでした。彼らの霊的状
況は目の前の現実のことでイエスさまが現れても全く見えない状態でした。むしろ召
された時の信仰さえ忘れてしまいました。「主よ。私のような者から離れてください。
私は、罪深い人間ですから。」と告白したペテロさえ子供になってしまいました。現
実に忠実であるのは素晴らしいことですが、現実に執着すると誰でも子供になってし
まいます。
皆さんは、神さまからどのように呼ばれていると思いますか。細く聞こえる主に呼
びかけに耳を傾けてみましょう。
再び現れたイエスさまは、もう一度体験の恵みを与えました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」これは主の憐れみです。6節です、「そこで、
彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができ
なかった。」また7節です、「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。
『主です。』」この二つの節の「そこで」ということばが非常に印象的に感じられま
す。それは主がおっしゃった通りに従った時、すぐ網を引き上げることが出来なかっ
たほど魚を取り、そこで、すぐ見えないことばの主、イエスさまが見えてきたのです。
キリスト教の信仰は決して頭の中で自分の考えを論理的に組み立てる思弁哲学では
ありません。みことばに従う実践こそ信仰です。主のみことばに従ったその時、よみ
がえられた主イエスさまが離れていないことが分かりました。もう一度、よみがえら
れたイエスさまが見えたのです。
このように、イエスさまはガリラヤ湖で非常に似た出来事をもう一度現して、ペテ
ロをはじめ7人弟子の信仰を目覚めさせました。舟も網も何もかも捨てて、イエスさま
に従っていた召された当時の信仰への目覚めでした。主の憐れみです。
神さまは一度だけ施す方ではありません。同じ出来事でも繰り返して行われる憐れ
みの方です。紅海を分けて下さった神さまは、ヨルダン川も分けて下さいました。五
つのパンと二匹の魚で5千人を食べさせる奇跡を起こして下さったイエスさまは、その
後7千人を食べさせて下さいました。神さまは私たちに繰り返して語ったり、繰り返し
て経験させて下さいます。そうしないと愚かな子供である私たちはすべてを忘れるか
らです。
以前はイエスさまを正しく信じていましたが、今は思弁的になって心配ばかりして
いるペテロに、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
(ヘブル13:8)ということをはっきり見せて下さったのです。やっとペテロの目にイ
エスさまが見えてきました。
7節を見ますと、ペテロは捕ろうとしていた沢山の魚には興味を持たず、湖に飛び込
みました。なぜでしょうか。再び見えてきたイエスさまに向かっていたのです。すべ
てを後ろに置いてイエスさまに向かって飛び込んでいったのです。ただイエスさまの
みの信仰に戻ったようです。
ペテロや弟子たちが魚を取りに湖に出かけたことが決して悪いことではありません。
大切なことは彼らの心の姿勢でした。正確に言うと、イエスさまが離れてしまったと
思い込んでいた彼らの不信仰が問題でした。
仕事も商売も勉強も何でもしてよろしいのです。ただし、主とともにしないことは
無駄な苦労で終わります。魚を取るペテロの腕がさびていたわけではありません。イ
エスさまはご自分を忘れて魚を取ろうとすることに喜ばなかったのです。私たちは、
何をしてもいつも主とともに歩むべきです。
10節です。イエスさまはおっしゃいました、「あなたがたの今とった魚を幾匹か持っ
て来なさい。」弟子たちは、先ほどみことばに従って取れた大きな魚153匹の中から
もって参りました。12節です。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」イエスさまは弟
子たちの食卓にまでともにおられました。明日の朝の食卓まで用意して下さるのがイ
エスさまです。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約
束されたイエスさまのことばは間違いのない真理です。たまに主イエスさまが見えな
いとしても決して私たちから離れることはありません。
ヨハネの福音書14章16-18節です。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父は
もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあな
たがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受
け入れることが出来ません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、
あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがた
のうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わた
しは、あなたがたのところに戻って来るのです。」
死からよみがえられた主イエスさまが私たちとともにおられます。恐れないで、日々
与えられたみことばに耳を傾けましょう。時には私たちの願いと違って、「右側に下
ろしなさい。」と聞こえるかもしれません。「もっと深みに漕ぎ出して、網をおろし
なさい。」と聞こえるかもしれません。何も考えず、その通りにしましょう。おっしゃ
る方は私たちの人生を創った創り主だからです。そうすれば、今まで経験してない153
倍の実りを味わうことが出来るでしょう。
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