御霊の願い

(使徒4:32-35)   1999年5月16日(日)
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 静かな湖を歩きながらデートを楽しむ一組の恋人がおりました。会話が途切れたと

き、女はこう言いました。「ねえ、月がとっても明るいのね。」男は女の真意を汲ま

ず、むっつりしたことばで口答えします。「満月だから明るいのは当たり前だろう。」

表面上の会話では男のことばは成り立っています。が、しかし、女は満月のことはも

ちろん分かっています。おそらく、女はこのように考えたのでしょう。「この人は全

然通じないのね。バカみたい。」

 女の心が読めなかったので、この男は正しいコミュニケーションが取れませんでし

た。ことばには、表面上の一次的な意味があり、辞書的な解釈が出来ます。しかし、

それだけでは相手のことばの意味を十分読み取るのは難しいと思います。ことばには

もう一つ裏にある二次的な本音の意味があります。それで、イエスさまはすべてをた

とえ話で語られました。例え話には必ず裏の意味を伝えようとする主イエスさまの願

いが込めてありました。

 さて、今日は使徒の働きから学ぶことですが、御霊に満たされた人々から何を学ぶ

べきでしょうか。多くの方は、異言を語ったり、悪霊を追い出そうとしたり、いやし

の祈りをしたり、幻を見ようとします。このような動きをカリスマ的な働きといいま

すが、数年前から情熱の南米から北米に渡り、その影響はこの日本まで広がっている

ようです。結論ではありませんが、カリスマ的な働きが本当に御霊さまの働きとして

自然に現れる現象であるなら誰もそれを批判することは出来ませんし、禁じることも

出来ません。「聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されない」からです。

 このようなカリスマ的な真似自体が宗教的な体験を持たしてくれる方法としては理

解出来ないわけではありませんが、しかし、カリスマ的な体験こそ神の国の完成のよ

うに言う方がいらっしゃるので少し戸惑いを感じます。そういう意味でここで、この

ようなカリスマ的な真似自体が御霊の最終的な願いであるのかどうかと、問いかけて

みたいと思います。それでは使徒の働きからもう一度学んでみましょう。

一、御霊に満たされた人々の特長

 使徒の働き2章を見ますと、主イエスさまのみことばに従って、約束された御霊を

待ち望んでいた初代のキリスト者120人は、突然、天から、激しい風が吹いてくるよ

うな響きに囲まれ、ひとりひとりの上に炎のような分かれた舌が現われとどまる神秘

的な体験をして、皆が聖霊に満たされます。また、そのしるしとして「御霊が話させ

てくださるとおりに、他国のことばで話しだします。」それを聞いていた当時のエル

サレム神殿の巡礼者たちは多くの国から来てことばが通じなくて困っていたのに、彼

らが話せることばの意味が聞こえてくるので皆驚きます。それから、この群れは世界

の母教会であるエルサレム教会になります。

 また、彼らが御霊に満たされてから生活のスタイルが大きく変わります。使徒の働

き2章42節から47節までです。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わり

をし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによ

って、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみな

いっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、

それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集

まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての

民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」 彼らが

聖霊に満たされた時から変わったことは、異言を語ったり、不思議な奇跡を行う神秘

的な体験だけではありません。一度二度の体験より、何よりも先ほど読んだ44節と45

節のことばの内容ですが、「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの

物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、

みなに分配していた。」一言で言いますと彼らは聖霊に満たされて、自分たちの持ち

物を他人と分かち合ったのです。これは個人的に隠れた神秘の体験ではなく、人の前、

特にノンクリスチャンの前にも明確に証しする生き方、そのものでした。

 この生き方は続きました。本日のテキストである4章32節から35節にはもっと進ん

だ説明が記されてあります。「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひと

りその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエ

スの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼ら

の中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、

代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け

与えられたからである。」

 聖霊に満たされていたエルサレムの母教会から学ぶところは、神秘的な個人の体験

もありますが、自分たちの持ち物を隣人に分け与えることです。彼らは自分たちのも

のを個人的に他人を選んで与えてはなく、使徒たちの足もとに置くほど、組織的に共

同的に守り行いました。これが聖霊に満たされていた彼らの生き方でした。

 続けて使徒の働き5章を見ますと、必要な隣人のために土地を売り、代金を使徒ペ

テロに持ってきたアナニヤと妻のサッピラは、代金の一部を隠して出し、御霊を騙し

ます。その結果、二人はいのちを失います。御霊の恐ろしい働きでありました。

 以上のことを見ますと、御霊の願いは満たされた人々が自分の持ち物を他人に分け

与えて、ひとりも乏しい者がない御国の恵みを味わせることであると分かります。そ

れでは旧約聖書にはどのように教えているか、学んでみましょう。

二、旧約の教え

 ご存じのように、御霊が初代のキリスト者たちに臨まれたのは、五旬節の日でした。

この日はレビ記をみますと七週の祭と言われるユダヤ3大祭りの一つです(他は過越

祭と仮庵祭)。ギリシヤ語でペンテコステとも言います。

 分かりやすく申しますと、過越祭の次の安息日から七週が過ぎた50日目の日を五旬

節といいます。ちょうど、その時が大麦の収穫の終わり頃になります。レビ記23章15

節から22節までみますと、五旬節をどのように守るべきであるかを記してあります。

その中で特に22節を見ますと、神さまは選びの民にこのように語られます。「あなた

がたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはなら

ない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、

それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

 畑の持ち主は収穫の時、畑の隅までキッチリ刈り入れないで、少し残しておくか、

あるいは落ちた穀物があるなら、そのまま置いておくように命じられました。これは

どういう意味でしょうか。それは貧しい者と在留異国人(旅人)のためでした。

 実際、旧約聖書に出るルツという女は、ご主人を亡くしてから、姑とともにベツレ

ヘムで暮らしますが、何にも持ってない彼女は人の畑に出て、刈り入れる人々が残し

た落ち穂を取って食べていきます。

 申命記23章24-25節にも似たことばが書いてあります。「隣人のぶどう畑にはいっ

たとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかご

に入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよ

い。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」これはどういう意味のことば

でしょうか。

 このことばは二種類の人に教えることばです。一方は腹をへらしている貧しい人で

す。その人は他人の畑に入って飢えをしのぐために食べてもよろしいということです。

もう一方は畑の持ち主に対する教えです。ぶどう畑や麦畑の持ち主は貧しい人が自分

の畑に入っても勘弁しなさいと言う教えです。このことばのスピリットと意図は、神

の民の中で腹をへらして人がいないように、互いに分かち合うことを教えています。

 このように、大昔、五旬節を過ごした旧約の人々にも、新約の御霊に満たされた人

々のように、自分の持ち物を他人のために分け与えることが教えられました。本当に、

神さまの教えは時代を越えても変わることがありません。

三、イエス・キリストの教え

 次に、イエス・キリストの教えから学んでみましょう。ルカの福音書12章に、イエ

スさまがある金持ちの例え話を語られる内容が記されてあります。広い土地を持って

いた金持ちが豊作で、作物をたくわえておく場所がなく悩みました。この金持ちは今

まで使っていた倉庫を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこ

にしまっておきました。そして、彼は満足そうに自分の魂に、このように言いました。

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べ

て、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)

 イエスさまはこの金持ちを指して「愚かな者」と言われました。しかし、よく考え

てみると、この金持ちは誉められる人ではないかと思われます。イスラエルのような

水も少ないところで沢山の収穫を得たのは素晴らしいことではありませんか。彼は他

の人のように遊ぶ時に遊ばず、休む時に休まず、暑いイスラエルの日差しの中でも汗

を流しながら真面目に働いたと思います。その結果が豊作でした。

 では、何をもって彼を愚かな者と決め付けられたのでしょうか。この金持ちのこと

ばを見てみましょう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。

さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」このことばには二つのことが抜けてい

ます。

 一つは、この金持ちには神さまはいません。当然、豊作を与えて下さった神さまに

感謝すべきなのに、彼の人生に神さまは認められていないのです。

 もう一つは、この金持ちには隣人がいませんでした。隣人に対する関心は全くあり

ませんでした。一人で食べて、一人で飲んで、一人で楽しもうとしています。この愚

かな金持ちは神さまも隣人もいません。ただ「自分自身」しかいません。自分の持ち

物を貧しい人に分け与えようとする考えは全くありません。自己中心のエゴしかあり

ませんでした。それでイエスさまはこの人を「愚かな者」と言われました。

 マタイの福音書19章の記録ですが、ある日、ある青年はイエスさまに尋ねました。

「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

彼はほとんどの律法は守っていた非常に真面目なきよめの青年でした。しかし、イエ

スさまは彼に言われました。「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさ

い。」

 イエスさまのことばを聞いた青年は、悲しんで去って行ってしまいます。それは彼

が多くの財産を持っていたからでした。その時、イエスさまは一言を言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいこと

です。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、

らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」このことばを誤解しないで下さい。

決して金持ちは御国に入ることが出来ないと言う教えではありません。自分の持ち物

を隣人と分かち合うことが出来ないことが問題です。分かち合うことが出来ないのは

恐いことです。

 このように、御霊とともに働かれたイエス・キリストも自分の持ち物を分け与える

ように教えられました。

結論

 申命記15章11節です。「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、

私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者

に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」

 本当にそうです。エデンの園から追い出された人間の社会には、いつまでも貧しい

者がいるだろうと思います。それで私たちは分かち合うべきです。そのためには、自

分の手を握り締めていては出来ません。自分の手を開かなければなりません。御霊に

従わない人は自分の手を開くことが難しいと思います。しかし、御霊の人には難しく

ありません。

 使徒の働き20章に、パウロが3回目の伝道の旅の帰りにエペソのミレトで、そこの

信徒たちと別れのことばを分かち合いますが、有名なことばを残します。「受けるよ

りも与えるほうが幸いである。」(使徒20:35)これはイエスさまのことばですが、

パウロを通して下さった真理です。

 私たちが分かち合うべきことは物質だけではありません。もちろん、物質も大切で

すが、物質とともに愛も分かち合うべきです。愛のない物質は単なる物に過ぎません。

しかし、愛が込めてある物質は霊的なものに変わり隣人を励まします。

 私たちは時間も分かち合うべきです。自己満足のみに時間をつぶす人生ではなく、

隣人のために分かち合う時間は私たちを豊かな人生に導くと思います。

 何よりも私たちは最も大切な富であるイエス・キリストの福音を分かち合うべきで

す。「喜びは分け与えるほど大きくなる」と言うことばがあります。福音も同じです。

分け与えるほど私たちの信仰もますます伸びていきます。ことばだけではなく、私た

ちの生き方や実践を通して福音を分け与えるべきです。

 それでは、御霊の願い通りに従い、御霊の人として、分け与えるために地の果てま

で出て行った初代教会の兄弟姉妹たちのように、私たちもこれから自分の持ち物を分

け与える御霊の人になりましょう。手を開きましょう。分け与えましょう。これが御

霊の切なる願いです。


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