先週の主日礼拝の時、私たちはユン先生を通して、みことばの深さや広さ、高さを十分味あう恵みの時を持たしていただきました。また、6月1日にありましたお茶の水
クリスチャン・センターでの「日々のみことば」読者セミナーでも多くの参加者とと
もにみことばの恵みを分かち合うことが出来まして感謝いたします。私は続きまして
大阪の読者セミナーや浜名湖での牧師研修会奉仕などでとても忙しい一週間になり少
し疲れも覚えますが、一方特別な訓練と恵みのときになり感謝でいっぱいです。
さて、今日は少し遅れたような気がしますが、使徒の働きからもう一度恵みをあず
かりたいと思います。もうすでに、「日々のみことば」のディボーション・テキスト
は使徒の働き20章に入りましたが、1章に戻りもう一度あずかった恵みを分かち合いた
いと思います。
使徒の働きは、使徒パウロの忠実な同労者であり、ルカの福音書を記録した医者ル
カが当時の高官テオピロに送った報告書であると言われています(ルカ1:3)。聖書
を読んでいる方はすぐ分かると思いますが、使徒の働きは教会の歴史であり、その教
会による福音宣教の歴史です。
多くの方は使徒の働きを教えながら、教会の歴史は2章に出る五旬節(ペンテコス
テ)の日、約束の聖霊に満たされた120人の群れによって最初はじめられたと言われて
います。しかし、聖書をよく調べてみますと、聖霊が120人の群れに下る前、すでに教
会は形成されてあることが分かります。
使徒の働き1章は、聖霊が下る前、教会が形成されていたことを示しています。14〜
15節を見ますと、すでに120人の群れが集まり祈っていましたし、彼らの中にはペテロ
が指導者になっていました。まだ聖霊に満たされてないようにみえるペテロですが、
16節以後を見ますと、彼は旧約の預言として詩篇のみことばをよく理解して、群れの
前で裏切ったイスカリオテ・ユダの代わりに一人の使徒を選ぶべきであることを教え
ています。群れはペテロの教えを聞いて、すなわち旧約の預言を解き明かすペテロの
説教を聞き、二人の候補者を選び出し、祈ります。そしてその中からマッテヤを選び、
教会の12人の使徒に加えます。
このように、使徒の働き2章に聖霊が下るペンテコステの前、すでに1章にはしっか
り組織まで動く教会がたてられてありました。この教会を私たちは初代教会と呼び、
またはエルサレム教会と呼びます。それでは全世界にある教会の母教会である、この
初代教会がどのようにしてたてられたのか、聖書を見てみましょう。
大体の手紙や報告書が続けて送るとき、以前送った内容に対して少し説明するのは、まず以前送った内容に対して理解しているかどうか確認することであり、またこれか
らしようとする新しい説明を正しく理解してもらうためでもあります。
1節でルカは、テオピロに以前送った書に対して、すなわちルカの福音書に対して短
く説明します。それは「イエスが行ない始め、教え始められたすべてのこと」でした。
簡単にルカの言葉で申しますと、「これから私ルカが報告しようとするのは、イエス
・キリストという福音を土台にしてたてられたキリスト教会のことです。」と言って
いるのです。
「イエスが行ない始め、教え始められたすべてのこと」これは福音のことを指して
います。その内容は4つのの福音書に詳しく書いてある通りです。おとめマリヤより罪
なしで生まれたイエスさま、(最初の人間アダムはサタンに誘惑され失敗しましたが)
荒野でのサタンの誘惑に勝利したイエスさま、盲人の目を開けさせるイエスさま、足
のきかない人を歩かせるイエスさま、5人の夫があっても満足しないサマリヤの女を悔
い改めさせ真の平安を与えるイエスさま、激しく荒れるガリラヤ湖を静めるイエスさ
ま、永遠のいのちを求めるニコデモにその道を教えるイエスさま、水をぶどう酒に変
えるイエスさま、悪霊に縛られ汚れていた人を解放させるイエスさま、宗教家によっ
て汚れていたエルサレム神殿をきよめるイエスさま、死んで朽ちているラザロをよみ
がえらせたイエスさま、すべての約束の民のために十字架に死んでくださったイエス
さま、そして死者の中から三日目によみがえられたイエスさま、天に召され神の国を
備えるイエスさま、いつか必ず再び来られるイエスさま、このイエスさまこそ福音で
す。教会は福音の土台にたてられるべきです。
先ほどペテロの教えを申しましたが、教会は福音であるイエス・キリストの土台の
上に立つべきであり、そのイエスの福音を解き明かす使徒たちの教えの土台に立つべ
きです。これはとても大切なことです。
使徒の働き8章26節以後を見ますと、エチオピヤ人高官を伝道するピリポの話しが出
ますが、ピリポが預言者イザヤの書を読んでいるエチオピヤ人高官に、伝道のために
訪ねた言葉があります。「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」確かにエ
チオピヤ人高官が読んでいたイザヤの書は神さまの預言として福音です。彼は福音を
読んでいても分かりませんでした。解き明かしてくれる人がいなかったからでした。
ピリポがそのイザヤの預言を彼に教えてあげます。エチオピヤ人高官はすぐ信じ、バ
プテスマを受けたのです。イエス・キリストの福音が一人の人間に解き明かされ、教
えられるとき、その人間はかしらであるイエス・キリストの教会の一部分に差し加え
られます。
ですから教会は建物でもありませんし、組織でもありません。教会はイエス・キリ
ストの福音にたてられ、その福音を解き明かす教えにたてられる人の群れです。そう
いう意味で、福音のしるしである聖書を持ち歩いても、その福音の聖書を教えてもら
わない人は福音とは関係のない人であり、長年教会に通っても福音の主キリストとは
関係のない人になりやすいのです。福音である聖書を解き明かして教えない教会は真
の教会ではありません。福音である聖書を解き明かして教えもらえない教会員は真の
クリスチャンではありません。教会(クリスチャン)は福音の土台にたてられるべき
です。
5節と8節のことばによりますと、イエスさまは福音にたてられた教会に、すなわち、福音を信じる群れの上に聖霊が下り満たしてくださることを言われました。教会は主
イエスさまの約束である聖霊に満たされるべきです。この約束はヨハネの福音書14章
に記されてあります。
ところが、先ほども説明しましたが、聖霊に満たされることに対して誤解しないよ
うに聖書を正しく学びましょう。まだ2章での聖霊に満たされた経験がない1章のペテ
ロが16節を見ますと、このように群れに語っています。「兄弟たち。イエスを捕えた
者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のこ
とばは、成就しなければならなかったのです。」これは、聖霊によって語られたダビ
デの預言である聖書のことばを解き明かして、裏切ったユダの代わりに一人の使徒を
選ぶべきであることを、よく適用した説教でした。これは20節に書いてある詩篇69編
25節の預言の解き明かしでした。ここで、もし今までの一般的な理解として考えるな
らば、聖霊に満たされてないペテロがどのようにしてダビデの預言を解き明かすこと
が出来たのかと、尋ねたくなります。
多くの人は使徒の働き2章以前までは聖霊の働きがなかったように理解しています
が、神さまである聖霊は創造の働きからおられましたし、イエスさまがヨハネからバ
プテスマを受けられるときも聖霊は鳩の姿で現れ、働きました。
ルカは福音書24章13節以下で、よみがえられたイエスさまに何度もお会いしたのに
まだ信じないでエマオの村に行く二人の弟子の話しを紹介しています。二人に復活の
イエスさまは現れ、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご
自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされ」ました(27)。そのとき、31
節に、「彼らの目が開かれ、イエスだとわかります。」その後、32節でそこでふたり
は話し合います。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
私たちの心はうちに燃えていたではないか。」ここで二人の弟子は聖霊の働きを経験
したことがわかります。このように、聖霊の働きは使徒の働き2章からではありませ
ん。以前からありました。
そうであるなら、なぜイエスさまが聖霊に満たされることを弟子たちに求めるよう
に命じられたのでしょうか。これを理解するため、2章で聖霊に満たされたペテロの姿
から学びたいと思いますが、1章までのペテロと変わったことはどういうところでしょ
うか。一つ大きく変わったことがありました。それは2章14節以後に見られるペテロの
説教です。今までは教会の中で信仰を持っていたクリスチャンに福音を語っていたペ
テロが聖霊に満たされてから教会の外のノンクリスチャンに同じ福音を解き明かして
語るようになりました。これは大きな力なしでは出来ないことでした。福音宣教で十
字架に殺されたイエスさまのことはよく覚えていたはずです。これは1章8節の通り、
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受ける。」ことです。そ
して満たされた聖霊の力で、教会は「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および
地の果てにまで、わたし(主イエス)の証人となる」べきです。
教会は聖霊に満たされ力を得るべきです。そしてペテロのように、教会の中から外
へ、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、出ていって福音を大胆に解き
明かし、宣べ伝えるべきです。そのために聖霊に満たされるべきです。この大胆な福
音宣教が教会の力なのです。教会に財産があっても、立派な建物があっても、大勢の
人材があっても、この大胆な福音宣教の力がなければ真の教会ではありません。
聖霊に満たされたエルサレム教会は、大胆な福音宣教の結果で、大勢の新しい信徒三千人が加えられました。爆発的なリバイバルでした。何のためでしょうか。そうで
す。8節の通りです。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにま
で、わたし(主イエス)の証人となる」ためでした。そのためにはエルサレム教会の
信徒たちは出ていくべきでした。
しかし、爆発的に成長したエルサレム教会は、聖霊の願いに従わないで教会の内部
のことで忙しくなりました。いろいろな経験を通して聖霊のしるしはありましたが、
教会の指導者たちはなかなか分かりませんでした。
6章1節を見ますと、「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユ
ダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうち
のやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。」教会のなかで生
じる問題の中で一番レベルの低い問題が食べ物に対する争いの苦情であり、また出身
地別の争いであると思います。これらは、教会が聖霊の導きに従わないように誘惑す
るサタンの働きです。2章44節に「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさ
いの物を共有にしていた」彼らの信仰がどこに飛んでしまったのか分からないほどで
す。これは満たしてくださった聖霊に従わない結果でした。もし私たちの教会にもこ
ういう面が見えるなら聖霊に従わないところがあると思います。
聖霊はご自分のみこころを成し遂げるため、エルサレム教会の信徒たちを強制的に
散らせます。ペテロとヨハネだけが受けていた迫害が信徒の方にまで及びます。食べ
物に対する争いの苦情で教会の内部のことだけで精いっぱいの時、使徒ではない信徒
奉仕者ステパノが石で打ち殺されます。迫害はどんどん酷くなりました。しかし、教
会の指導者たちは気づかず、エルサレムを離れません。
しかし、迫害のことで使徒以外の信徒たちはエルサレムから散らされはじめました。
8章4〜5節を見ましょう。「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り
歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」福音
は無理矢理ですが、聖霊のみこころの通りにゆっくり散らされた人たちを通して、地
の果てまで動いていました。
しかし、10章を見ますと、エルサレムの最高指導者であるペテロは信徒たちを強制
的に散らせる聖霊を見分けることさえ鈍くなります。ローマ人百人隊長コルネリオを
伝道させるために、聖霊は先にペテロを備えようと彼に働きかけます。大きな敷布の
ような入れ物がペテロの夢に現れました。その中には4つの足の動物やはう物、空の鳥
などが入ってありました。そしてペテロに声が聞こえました。「ペテロ。さあ、ほふっ
て食べなさい。」(10:13)。しかしペテロは律法で禁じられたことなので「主よ。
それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありま
せん。」と答えます。10章16節ですが、こんなことが三回あって後、その入れ物はす
ぐ天に引き上げられます。ペテロはコルネリオから遣わされた人たちが来たときまで、
聖霊が教えてくれても半信半疑でした。異邦人コルネリオの家で彼らに聖霊の賜物が
注がれたので驚き、やっと異邦人にバプテスマを授けます。エルサレム教会は、この
ように満たされても聖霊の導きに従うのに遅かったのです。
ところが、散らされた信徒たちによって開拓された13章のアンテオケ教会は違いま
した。彼らはエルサレム教会ほど大きくないし、指導者のなかに使徒たちはいません
でした。しかし、彼らは聖霊に従ったのです。そして、大胆に福音を地の果てまでの
べ伝える人、バルナバとサウロを送り出します。使徒の働き12章までに用いられてい
たペテロが中心だったエルサレム教会の歴史は消えてしまいます。代わりにパウロが
中心になる地の果てにまでの宣教は聖霊とともに初代教会の歴史を新しく代えていき
ます。
教会はイエス・キリストの福音土台の上に立てられるべきであり、教会は聖霊に満
たされ、宣教のために地の果てにまで散らされる存在です。これは自分を否定してイ
エス・キリストとの十字架に従う、約束されたアブラハム子孫のみ味わう祝福です。
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