教会に来られている方の中には、こんな質問があると思います。「どうして自分の国の歴史も全部分からないのに、イスラエルの歴史まで学ばないといけないのか。」
皆さんはいかがでしょうか。実は、私も同感です。
しかし、歴史を通して記されてある聖書を見ますと、聖書の神さまが歴史の主であ
ることが分かります。同時にもう一つ、歴史を通して記されてある聖書を見て、神の
民のアイデンティティーが何であり、神の民の使命が何であるかが分かります。
ここで一つ加えたいことがありますが、なぜ、神さまは「歴史」というものを通し
てご自分を示されるかということです。答えには二つがあります。一つは、聖書の神
さまは歴史を通してのみ理解でき、認識可能だからです。他の宗教では人間の悟りの
世界や自然を通して神々の世界を理解しようとします。しかし、生きておられる聖書
の神さまは、イスラエルの民との歴史的な体験を通して世界の人々にご自分を示して
おられます。歴史に対して、もう一つは、過去の歴史を覚えることによって、神の民
のアイデンティティーが守られるからです。真の神さまを信じる自分たちはどういう
存在であり、何をなすべきであるか、自分たちの使命をはっきり保つことが出来ます。
このような意味で、今日、ヨシュア記を通して恵みを分かち合いたいと思います。
ヨシュア記は、出エジプトしたイスラエルの民が、モーセの代わりに立てられた新し
い指導者ヨシュアの導きにより、神が約束したカナンの地を征服する歴史です。
今朝お読みした5章の内容は、イスラエルの民がヨルダン川を渡り、カナンに足を踏
んだとき、彼らが最初に行ったことに対する記録です。神さまの力でヨルダン川を渡っ
た彼らは、何を先にすべきだったんでしょうか。常識では、恐らく、敵の攻撃を備え
て見張り台を造ったり、城を造るのではないかと思います。そうでなければ、続けて
カナンの地へ攻めて行くことはできないと思います。
しかし、ヨルダン川を渡ったイスラエルの民が行ったことは納得出来ないことでし
た。それはイスラエルの男たちに、敵の目の前で割礼を施すことでした。
「ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たち」の地に入ったイスラエルの民が最初行ったことは自殺
行為のようなことでした。それは神さまの命令でした。2節です。「そのとき、主はヨ
シュアに仰せられた。『火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせ
よ。』」なぜでしょうか。その理由は4〜7節までに記されてあります。
出エジプトしたイスラエルの民は全員割礼を受けていました。ところが、彼らは荒
野で神さまに従わず敵対したので、40年間迷い、その荒野で死んでしまいます。それ
からカナンに向かう民は荒野で生まれた若い世代でまだ割礼を受けてない人たちのみ
が残りました。
神さまは、ヨルダン川を渡ったこの新イスラエル人に40年間しなかった割礼を施す
ように命令を下したのです。男の性器の皮を切り離す割礼は包茎手術のようですが、
これは神の約束が子々孫々に受け継がせるためのしるしでした。そして、このしるし
は隠れたところにして、自分だけいつも確認出来るようにし、他人には自慢しないよ
うにしました。
この割礼からの教えはいくつありますが、まず私たちにある肉の欲望を切り離し、
神さまに服従させる意味があります。割礼を受けたとしても肉の欲望がなくなるわけ
ではないと思いますが、割礼はこのようなしるしとして約束の民のために生きる励ま
しになりました。
もう一つの意味は、神さまは割礼を通して、カナンの戦いが荒野での戦いよりもっ
と厳しい聖なる歩みであると教えています。荒野での誘惑は食べ物や飲み物のことが
多いのでしたが、しかし、カナンの地には不品行の偶像バアルをはじめ、神々への誘
惑が多いので、聖なる歩みの備えとして割礼を施したのです。
もう一つの意味は、神さまは割礼を通して新しいイスラエルの民の信仰をテストし
ておられたのです。イスラエルの民が敵に囲まれているところで手術を受けるのは自
殺行為のように見えます。もし敵たちがこれを知って攻撃するならおしまいです。人
間の理性ではとても受け入れにくいことでした。しかし、イスラエルの民は一人も残
らず割礼を受けたのです。これは彼らがカナンのすべての課題を神さまに委ねる信仰
のしるしでした。
今日、このテキストを通して、私たちに語っておられる神さまの意図は何だと思い
ますか。この世の中で、信仰告白しクリスチャンになっている私たちは、ヨルダン川
を渡りカナンの地に入った新しいイスラエルの民のようです。私たちが歩む信仰の道
は聖なる地なので、神さまの前、いまだに残ってある肉の欲望や人間の自慢などがあっ
たら徹底的に切り離すべきだと教えています。みなさんも何を切り離すべきであるか、
考えてみましょう。
ところが、イスラエルの民が敵の地で、どうやって自殺に等しい割礼が出来たので
しょうか。もちろん普通の考えでは出来ないはずです。彼らはヨルダン川を渡るとき、
すばらしい主の恵みを経験し、その恵みに満たされたので、神さまに従う割礼が出来
たのです。満たされる恵みなしに、肉の欲望を切り離すことは出来ません。神さまの
恵みに満たされることこそ、今まで出来なかったことを出来るようにさせます。
そして、イスラエルの民が割礼を施したとき、神さまはなんとおっしゃいましたか。
9節を見ましょう。「主はヨシュアに仰せられた。『きょう、わたしはエジプトのそし
りを、あなたがたから取り除いた。』それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。」
これは割礼を受ける彼らに、彼らの歴史にあったエジプトという過去の恥を全部取り
除いてくださる神さまの宣言でした。神さまは割礼を受ける前までの彼らを、ある意
味で出エジプトしてないと思っておられました。身体はエジプトを離れましたが、心
にはいつもエジプト時代の奴隷のくせが残っていました。しかし、敵に囲まれた地で
割礼を受ける彼らの純粋な信仰をご覧になった神さまは、もはや奴隷ではなく、ご自
分の子どもであり、真の自由人であると宣言されたのです。
みなさんにもこのようなギルガルの決断があったのでしょうか。そして神さまから
認められた信仰のしるしがありましたでしょうか。
イスラエルの民が過越のいけにえをささげたことも割礼と同じ40年ぶりのお祝いでした。11〜12節を見ますと、カナンの地の新しい収穫の初穂をささげることによって
過越を祝うことの出来た彼らの心には、喜びと感謝にあふれていたと思われます。
過越の祝いは、過越の子羊の血により神の怒りを逃れ、奴隷の地エジプトから救い
出された神の救済を記念する祝いです。この過越の祝いは出エジプト12章48節を見ま
すと、割礼を受けた者だけが祝うことが許されていました。それで荒野で生まれた新
イスラエル人である彼らは割礼を受けましたし、また過越を祝うことにより、40年の
試練の旅を終わりにし、再び神さまとの約束の再確認することが出来たのです。しか
も、それが敵を目の前にしたギルガルの決断でした。
ここで、一つ覚えたいことは割礼は一生一回限りですが、過越の祝いは、こらから
カナンの戦いの日々の中にあっても、絶えず繰り返して守るべき信仰の歩みであるこ
とです。絶えず繰り返して守るべき信仰の歩み、このような信仰の充実さによって、
カナンであるこの地上の戦いの生活も、人間自分のわざでなく神の戦いへの参加であ
ることが体験されていきます。
ヨシュア記全般の教えによりますと、見える恵みの手段として、カナンのイスラエ
ルの民はギルガルでの決断である割礼と過越の祝いが信仰の原点を探る基盤となりま
した。失敗の時はこのギルガルに来て自分たちの信仰を確かめてみたのです。
新約的に言いますと、割礼は一生一回限りの洗礼に当たるものであり、過越の祝い
は絶えず繰り返して守るべき信仰の歩みのしるしである聖餐です。
今日、特に洗礼を受ける方は、この意味を深く心に刻むべきであると思います。来
週は聖餐式がありますが、このような意味を理解した上で聖餐をあずかるべきである
と思います。
カナンの地で割礼と過越の祝いを守った翌日から40年間続けていたマナが止まりました。マナはある時期まで必要だった非常食でした。彼らの信仰や行いとは関係なく
マナは続けて与えられました。不従順の時でも、神さまはマナを与えてくださいまし
た。ところが、イスラエルの民がカナンの地の収穫を得た翌日からマナは止まりまし
た。ここには二つの意味があると思います。
一つは、これから再び荒野に追い出されることはないという意味です。マナが止まっ
たこと自体が、カナンの地での勝利を保証するしるしでもあります。もう一つは、こ
れからは正常な生き方を持つという意味です。毎日、空に頼っていた彼らの生き方が、
これからは種を蒔き、豊かな収穫を得る生き方に変わることを意味します。しかし気
を付けることは、豊かさが神さまの祝福ですが、場合によっては誘惑になることもあ
ることです。与えられたマナで生きるときは毎日神さまに頼りましたが、農作は一年
の食べ物を貯めておいて生活するので、神さまよりも貯めてある食べ物に頼る可能性
があります。
祝福と堕落は非常に近いものです。私たちが堕落しないで、カナンの地であるこの
世の中で祝福の人生を過ごすためには、荒野のスタイルで生きるべきであると思いま
す。生活がカナンの豊かさのようになっても、心は荒野のスタイルで毎日あずかるス
タイルで生きるべきです。仕事の力を信じないで、貯めてある銀行や保険に頼らない
で、日々与えてくださる神さまの力と導きに頼る生き方です。
神さまは、カナンのイスラエルの民にこのように豊かな自由を与えられました。こ
れは彼らの信仰が成熟することを期待しておられる神さまの願いでした。40年間の訓
練を終えたイスラエルの民は成熟すべきです。みなさんはいかがでしょうか。カナン
での成熟でしょうか。もしくは荒野に戻り40年の試練を今も繰り返しているんではあ
りませんか。
結論です。13節以後を見ますと、神さまは、このようなイスラエルの民のギルガルでの決断に対し、彼らの代表ヨシュアの前に、大きなしるしである主の軍の将軍を送っ
てくださいました。これからのカナンの地での戦いを神さまご自身が先頭で戦ってく
ださるしるしであり、確認でした。ただし、このカナンの戦いは「あなたの足のはき
ものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」とヨシュアが聞かれたよ
うに、聖なる場での聖なる戦いであることを忘れないことです。
私たちクリスチャンが生きるこの世は、神さまによる聖なるカナンの地です。だか
ら聖なる生き方で戦うべきです。クリスチャンらしく生きるべきです。
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