人間は認識の超えた世界に対して理解出来ない面があります。見たこともない、聞
いたこともない、触れたこともないことに対しては分からない、あるいは納得出来な
いと言います。今日は、永遠のいのちは可能なのかという題で聖書から学びたいと思
います。
元々、人間が神さまによって造られたときは、永遠のいのちを保つものとして造られました。創世記2章7節以後を見ますと、「その後、神である主は、土地のちりで人
を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」
9節「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を
生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」
ところが、16〜17節を見ますと、「神である主は、人に命じて仰せられた。『あな
たは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取っ
て食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」このみこ
とばを見ますと、善悪の知識の木からは取って食べてはいけませんが、いのちの木か
ら取って食べるのは禁じられておりませんでした。むしろ、いのちの木の実は食べさ
せられました。永遠の方である神さまご自分の形に造った人間なので、同然いのちの
木の実は食べさせられたと思います。
エデンの園の中央に植えられたいのちの木から毎日いのちの実を取って食べた人間
は、恐らく、となりの善悪の知識の木を見て、神さまこそエデンの造り主であり、エ
デンの持ち主であると認識したと思います。このように、いのちの木は、神の形に造
られた人間のいのちを、神のように永遠まで支えるために、神さまから設けられた祝
福の果物でした。しかし、この祝福は神さまの約束を守ることによって続けられる祝
福で、もし神の約束を破ることになると祝福も破られる責任が問われる祝福でした。
ご存じのように、残念ながら人間は神さまの約束を破ってしまい、禁じられていた
善悪の知識の木を食べてしまったのです。神さまは怒られました。心痛い神さまはご
自分の形に造った人間を「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と厳し
く約束した通り、彼らを死に渡します。これが人間をエデンの園から追い出したこと
でした。
永遠のいのちが保証されていた人間は、間違って食べたことで、永遠のいのちの世
界エデンの園から追い出されます。創世記3章23節です。「そこで神である主は、人を
エデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すように
なった。」それでは、なぜ、神さまはエデンから人間を追い出したのでしょうか。答
えは3章22節です。「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのよう
になり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って
食べ、永遠に生きないように。』」元々永遠に生きるものとして造られた人間は、エ
デンから追い出され、いのちの木から食べることが出来なくなりました。神さまの御
怒りです。
間違って食べたために追い出された人間は、食べるために、生きるために、土を耕
さないといけない苦労と一生を闘います。しかし、人間は、生きるために食べている
か、食べるために生きているか、のようですが、人生って何なのかと問われた場合、
むなしい死に向かっている人間として、何のために生きるか、何のために食べるか、
誰もなかなか答えられなくなります。永遠のいのちを失った人間の迷いのように思い
ます。
何を食べるかという課題は、いつの時代でも大切なことでした。イスラエルの民が奴隷として捕らえていたエジプトから、ある日解放されたときでした。エジプトに滅
びの災いを下した神さまはイスラエルの民に命じられたのです。出エジプト記12章7〜
8節です。「その(羊の)血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それ
をつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパ
ンと苦菜を添えて食べなければならない。」イスラエルの民は訳も分からず、神さま
に命じられた通り、羊の肉とともに、食べにくい種を入れないパンと苦菜を添えて食
べました。これはエジプトでの罪を取り除き、エジプトでの苦しみを思い、神さまの
憐れみを求める意味のある食事でした。この食べ方はイスラエルの民自ら考えた食事
でなく、神さまに命じられた通りの食事でした。
この日、神さまに命じられた通りの食事をしていたイスラエルの民は、滅びの災い
からいのちを守ることが出来ます。これが最初の過越でエジプトからの解放の日、い
のちの日でした。この過越の出来事は、そのときからイスラエルの民において、信仰
の根拠になり、信仰の支えになり、永遠に覚えるものである過越の祭になりました。
また、荒野での40年間、イスラエルの民は一度もとばさなく降り続けてきた神さま
からのマナを食べて約束の地にたどり着くことが出来ました。40年間の彼らの生活は
不思議でした。申命記8章2〜4節です。「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野で
あなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめ
て、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるもの
を知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、
あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生
きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなた
にわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの
足は、はれなかった。」マナの威力でしょうか、不思議に食べさせられた神さまの恵
みでした。
奴隷の恐怖から解放させてくれた過越の食べ物や荒野40年も元気に過ごさせてくれ
た食べ物マナは、まことに生きるために何を食べるべきであるかを示しています。こ
れらは永遠のいのちのために何を食べるべきかを次の世代に示すしるしでした。
今日のテキストであるヨハネの福音書6章を見てみましょう。4節からの説明ですが。過越が間近になっていたある日、イエスさまは、ある少年が持ってきた大麦のパン5つ
と小さい魚2匹で5千人の人々を十分食べさせ、余ったものが12のかごになるまで残す
不思議な奇跡を起こします。過越が間近になっていて、先祖たちが荒野で食べていた
不思議なマナのような奇跡が自分たちの目の前で起こったので大勢の群衆は驚きました。
そして、群衆はこの奇跡の主イエスさまを自分たちの王に立てようとしました。し
かし、イエスさまは彼らに26〜27節のことばで、このようにおっしゃいます。「まこ
とに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、し
るしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためでは
なく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人
の子があなたがたに与えるものです。」
これをやさしく言い換えますと、「あなたがたは、大麦のパン5つと小さい魚2匹で
5千人の人々を十分食べさせた奇跡を見て、わたしを王に立てようとしますが、もうや
めてください。パンを食べて満腹したからそのように大騒ぎするなら間違っています。
この奇跡から見るべきしるしが見えないなら残念です。お願いですから、いつまでも
保ち、永遠のいのちに至る食物を求めなさい。」という意味です。
28節を見ますと、それから彼らは「私たちは何をすべきでしょうか。」とイエスさ
まに訪ねます。29節でイエスさまのお答えです。「あなたがたが、神が遣わした者を
信じること、それが神のわざです。」また、彼らが30節で訪ねます。「それでは、私
たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。」そこで
イエスさまの説明が続きます。「先祖たちはマナを食べたが、死んで去った。しかし、
これからあなた方は天から来た真のいのちのパンを食べるだろう。」それで、彼らは
求めました。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」そこでイエスさ
まはおっしゃいます。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢える
ことがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35)
群衆はびっくりします。「どうしてあなたが食べられるパンでしょうか。」しかし、
イエスさまは続けておっしゃいます。「わたしはいのちのパンです。」「わたしは、
天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きま
す。」(51)彼らはまた、訪ねます。「そうすると、どうすればいのちのパンである
あなたを食べることができるのですか。」そのとき、イエスさまは「信じる者は永遠
のいのちを持ちます。」と答えられました。食べることが信じることであると教えて
くださったのです。しかし群衆はなかなか納得出来ませんでした。
いよいよ、イエスさまは、おっしゃったことばの通り、ご自分のからだを自ら十字
架にかけ、ご自分のからだを破り、永遠のいのちを求める人々に、いのちのパンとし
て分け与えてくださいました。これを最後の晩餐のとき、食べることが信じることで
あるとご自分の弟子たちに見せたのです。これを教会は聖餐式として守っているのです。
食べることが信じることであるというなら、私たちは従いますが、具体的にどうい
う意味であるか知りたくなります。56〜57節です。「わたしの肉を食べ、わたしの血
を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父
がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わ
たしによって生きるのです。」イエスを食べることは信じることであり、これはイエ
スと互いにとどまることで身体がともになることを意味します。それで永遠のいのち
であるイエスによって生きることになります。
これで永遠のいのちのエデンの園から追い出されていた人間に、永遠のいのちに至
る回復の道が与えられました。これは人間の力によるものではなく神さまの憐れみで
した。永遠のいのちに至るこの回復の道はイエス・キリストによる道です。
聖書の最後の預言である黙示録に、エデンの回復とともに回復される永遠のいのち
に対して書いてあります。黙示録21〜22章にそれが描いてありますが、特に22章14節
に「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都
(新エルサレムであるエデン)にはいれるようになる者は、幸いである。」と書いて
あります。これは「いのちの木の実を食べる権利」が回復されたことを示すことです。
ところが、誰がその権利をもらうのでしょうか。「自分の着物を洗った人」でした。
それでは自分たちの着物はどこで洗いますか。黙示録7章14節に書いてあるように、子
羊イエスの血で洗い白くさせるべきです。
それで、イエスさまはおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに告
げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いの
ちはありません。」(ヨハネ6:53)
聖餐式はこういう意味を持ちます。今日も謹んで主の聖餐を預かりましょう。
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