投稿者:朱 鐘植 日時 2000年12月18日 21時13分59秒
外面的な人と隠れた人
物事に気がつき、理性に目が覚めると、幼いときには感じられなかった感情に誘われ、理性を愛する心が芽生えて来ます。そして、その心に従って好きな人に出会い、愛を交しながら暮らすことを求めるのでしょう。最近は、正式に結婚をせずに、同居する人々がよくいます。
結婚しても離婚する場合がとても多いのです。皆が初めはお互いに気が合い、好きで死ぬまでいっしょであることを誓って、結婚したと思いますが、短い間で簡単に離婚し、やがて再婚をする人を周りでよく見ます。人は心の流れに従って生きる存在であるのは確かです。
ある日、家庭の問題が深刻な夫婦から電話がかかって来たので、教会に来るように勧め、いっしょに話しました。夫が妻の不倫でこれ以上いっしょに暮らせないと言い出しました。その話を聞いていた妻も、夫に対する不平不満を言い、いっしょに暮らせないと言いました。
夫は妻の不倫で衝撃を受け、苦しんでいて、妻は夫から心が離れてしまったからそのようになるしかなかった心境を言い、子供の問題や色々なことで苦しみました。
聖書に最初の人アダムが出て来ますが、その名前には'人'という意味があります。神が人を創造されたとき、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれたと聖書は言っています。創世記1章27節、神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。
神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。と記されていますが、ここで'ご自身のかたち'というのは肉のかたちを言うのではありません。神は肉のない霊的な存在だからです。霊である神は、土地のちりで人を形造られた後、その中にご自身のかたち、すなわち霊を吹き込まれ、隠れた人である霊魂を造られたのです。
聖書では人を二つの種類に分けて言いますが、外面的な人である肉と、隠れた人である霊魂です。外面的な人である肉は、目に見える物質世界を生きる人であり、隠れた人である霊魂は、見えない心の世界を生きる人です。そこで、神が人を造られたとき、隠れた人である霊魂を中心に生きるように設計されたので、人は心の世界が間違っていると、その霊魂が乾き、病気にかかってしまうのです。
顔がきれいで、体の手入れをよくしているからといって、心まで美しくて清潔ではありません。'白雪姫'のような子供の漫画を見ると、心が美しくてきれいな白雪姫の姿を悪魔のように描きません。美しい心を持っている人の姿は、きれいな顔で、素敵な姿に描きます。
反対に悪で汚れた心を持っている人の姿は、気持ち悪い顔に描きます。画家が目に見えない心をそのように表現するのです。ところが、人々はそのような漫画や絵本を見ながら、自分も知らないうちに、外面的な人を隠れた人のように思い込んでしまいます。
そのような影響のせいかもしれませんが、人々は人との付き合いのとき、印象だけでその人を判断してしまう場合がよくあります。男たちは、素敵な服装で、高い宝石を飾り、良い香りがするきれいな女の姿に惚れます。女たちは、二枚目で丈夫そうな男の姿に惚れる場合が多いのです。
‘人’と言えばほとんどの人々が外面的な人だけ考えます。肉がすべてだと思うから、健康食品を食べ、水泳、ジョギング、運動、ダイエットをして、外面的な人を飾りながら生きているのです。勿論、外面的な人である肉を管理して飾ることも重要なことです。
しかし、肉に不足さがないとしても、隠れた人である霊魂がきれいに飾られていなければ、その人はいつも欲望に引っぱられ、不平不満ばかりの人生を歩むだけです。聖書は、このようなことについて私たちに詳しく教えています。
汚れている隠れた人
人の心の世界を見ると、人を自分よりもすぐれた者と思う謙遜、神の御言葉を信じる素直な信仰、御言葉や教会の導きを素直に受ける従順、互いに信頼する心、すべてのことに節制する心、神の御心で隣の人を愛する心、状況がどうであっても壊れない平和、安らぎ、喜びなど、うるわしくて尊い心で飾られていないと思います。
かえって、神を信じない不信、自分さえ良ければ良い欲望、自分の正しさを最後まで強調する堅い心、自分を隠し、弁護する偽り心、疑い、どなり合い、自分を折ろうとしない不従順、自分を自慢じたがる高慢などでいっぱいなのです。外面的な人はきれいで、美しく飾っていますが、隠れた人はそうではありません。
たまに、道で酒に酔ったホームレスを見ます。みすぼらしい服、汚い臭い、お酒臭い、『あの人はどの位、風呂に入れなかったのか?あの服はいつから着ているのだろう?』と考えながら、『もし、私がホームレスならば、私が動くと汚い臭いで人々を苦しめ、人々は私から逃げるだろう!私のせいで被害を受ける人がとても多いだろう!』と思いました。そして、自分の隠れた人の姿を考えてみました。
『自分の隠れた人の姿が、酒に酔っているホームレスのように、汚れているだろう?』
ほんとうに自分の隠れた人の姿は、ホームレスのように汚れていました。不信、欲望、頑固、疑い、不従順、高慢、偽り心……。私は動くたびに汚い臭いを出し、周りの人々をどれほど苦しめ、被害を与えたのか気がつきませんでしたが、自分という人が神の前でどういう者なのか悟りました。そして、そのことで神に恵みを求めました。
私には小学校2年生の娘がいます。その娘がよく嘘をつくので、妻に叱られたりします。夏が終わる頃のある日、娘が私の所に来て、「寒い。寒い。」と言って騒ぎました。「どうしたの?全然寒くないのに、家族の中で寒いと言う人はお前一人だろう。」と言うと、「寒い。」と言ってふるえながら走り出しました。
その姿をよく見ると、娘は長袖の赤いワンピースを着ていたのです。『娘はきれいな服を着て、自慢したくてたまらなかったのか』と思い、「お前、何が寒い、お前、服のことを自慢したくて寒いと言っただろう?」と聞きました。
娘は最後まで違いますと言いましたが、結局、ほんとうはそうでしたと認めました。よくあることですが、子供たちもありのまま現わすことができず、隠していてどうしようもないとき、ほんとうのことを言うのです。子供でさえそうならば、まして大人たちはどうでしょうか?人には自分をそのまま現わすことを嫌がり、できれば隠したがる強い罪の本性があります。誰かが自分に騙されると、快感を感じながら、偽りの中で生きて行く人々がいます。
私たちの隠れた人の姿は、美しく飾られている姫のような姿ではなく、汚れた姿であることがすぐ分かります。神は、人間の中から謙遜、信仰、従順、犠牲のような美しい姿を見つけることができず、高慢、不信、不従順、欲望のような汚れた姿で満たされていると言われておられます。
人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。(創世記8:21)
残念ながら、自分の霊魂がこういう状態なのに、その事実を悟っている人が少ないのです。しかも、隠れた人がいることさえ知らず、ただ肉のために生きていることが、とてももどかしいのです。そこで、人々はなぜ、このように肉の中で偽りの人生を歩むようになったのでしょうか?聖書は、人々が聖なる神から去って、世の王、すなわち偽りの父である悪魔の奴隷になったためであると言いました。
神が人を造られたときには、隠れた人である霊魂の状態が清かったのです。その心は神の御言葉を信じ、清くて、神の愛で満たされた美しい状態でした。サタンは、人間の肉には関心がありませんでした。ただ神との交わりをする霊魂をねらいました。サタンは、人を甘い言葉で誘惑し、神の御言葉を疑うようにさせました。不信という一番汚い心を人に入れ、霊魂を汚しました。不信や疑いは何より汚れた心です。
1年前、ある夫婦に伝道したことがあります。その夫は妻をいつも疑い、信じてくれませんでした。セールスマンが来ても妻を疑い、電話が来た後も、「誰からの電話なのか?」と、なじたり…、その妻は精神的に苦しんでいました。
その奥さんは、夫の疑いと不信を解くために潔白を証明したり、たくさんの会話をしたりしました。しかし、夫は出勤してからも、家に戻って妻を監視したりする日々を過ごしました。結局、その夫婦は結婚して1年もならないうちに、離婚してしまいました。私はそのことを通して、疑いと不信の心が、その家庭を破滅させたのを見ました。
たくさんの不信の中で一番怖くて、人を不幸にさせるのは、まさに神を信じない不信です。神に対する不信が人間の心まで入って来て、まるで汚いあかで汚れている服のように、汚れています。聖書は、その不信が一番汚い罪であると言いました。
人々と話してみると、誰も信じていない心を強く感じられます。とても不思議なことは、人々は「人は信じられない。」と言いながらも、人である自分自身だけは徹底に信じて生きていることです。自分も人であるならば、信じられない存在であるはずなのに、偽りの父である悪魔に騙されているから、自分を信じるのです。
サタンは人々によって、神の御言葉を不信させ、あらゆる偽り心をその中に入れ、私たちの隠れた人が完全に破滅されるように、この瞬間も働いています。もう、私たちは、ただ肉のために生きるようにさせ、霊魂を汚している悪魔から去り、私たちの霊魂を清くすることを望まれる神の御心に立ち返るべきです。
隠れた人を清くする神
人間に向かう神の御心は、私たちの隠れた人である霊魂を清くすることです。そのため、神は罪のないイエス・キリストをこの世に来させました。神はイエス・キリストを通して、隠れた人の完全な美しさと清潔な姿を現わすことにより、私たち自身の汚れた隠れた人の姿を照らして見るようにさせました。イザヤ53章には、イエス・キリストの姿について一番よく表現しています。
彼は…砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ53:2)
イエスの外面的な人の姿は、美しい姿が全くありませんでした。主は十字架で死なれたとき、下着と着物以外、何も飾っておられませんでした。もし、主がその姿のまま、今、この世に来られるならば、人々は外見を見て、「ホームレスのような人が来た。」と言って蔑視(べっし)するでしょう。聖書は、イエスが人々に蔑視され、大事にされなかったと記しています。
しかし、まことに、主は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされました。
私たちの霊魂を清めるために十字架の上で、惜しむことなく血を流されました。主は私たちの霊魂を愛され、神の敵、罪人である私たちのために犠牲のいけにえとなりました。イエスの隠れた人は愛で満たされていて、謙遜でした。神の御心の前で自分を否定し、自分を捨て、犠牲を払いました。神の御言葉に自分を委ね、神を信頼しました。
神の御心だけを信じました。神の御言葉をそのまま受け入れる従順する心を持っておられました。神は、私たちを真実な人に造られることを望まれました。愛、謙遜、信仰が流れる隠された人が、美しい人に造られることを望まれました。宗教は、不従順の心を従順する心に変えられません。教育、政治、社会制度が真実な人を造ることはできません。
私は25才のとき、イエス・キリストを心に迎えました。主が御自分の血で、私の霊魂を清めて下さいました。神を信じながら生きられる、うるわしくて尊い信仰を神が私に与えられました。私の心が神を信じる信仰で満たされているとき、どんな罪悪も私を主観することができない、驚くべき世界を経験しました。
聖書にヨセフという人が出て来ます。彼は兄弟たちによって、エジプトに奴隷として売られ、奴隷の生活や牢に入れられたりするうち、神によりエジプトの支配者になりました。ヨセフは支配者になった後、自分の生涯を振り返ってみました。
神が自分に見せた夢の通りに支配者になっていました。ヨセフは、神が自分を支配者にさせるために、兄弟たちに売られ、奴隷の生活をし、汚名を受け牢に入れられ、結局、夢を成し遂げられたことに気づきました。自分に向かう神の真実な計画を悟り、神に対する信仰が心に満たされました。
その信仰の心が、兄弟たちに対する憎しみと苦しみからヨセフを完全に解放させました。彼が兄弟たちに会ったとき、彼の心には兄弟たちに向かって、復讐、憎しみ、恨みなどは全くありませんでした。ただ彼の心には、神に対する感謝、喜び、安らぎ、そして兄弟たちに対する愛と信仰でいっぱいでした。ヨセフの隠れた人は、復讐の心ではない愛、信仰、慰めの心で満たされていました。
私たちの心は、サタンが吹き込まれた不信で、隠れた人が汚れていて、あらゆる汚い欲望、憎しみ、ねたみ、高慢、不従順でしみになっています。ところが、イエス・キリストが私たちのすべての罪悪を負い、清めて下さり、私たちに清い心を与え、神を信じることにより、あらゆる罪悪と欲望に勝ち、希望の中で生きるようにして下さいました。
今日も、神は私たちの隠れた人を、信仰で清くて聖なるものに造られて行きます。皆さんの隠れた人の姿はどうですか?イエス・キリストの血を信じる信仰で、清くて清潔になっているのでしょうか?神から御言葉を信じる信仰を受け入れれば、皆さんは周りの多くの人々の役に立つ人になっているでしょう。
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