投稿者:朴 玉洙 日時 2000年12月18日 21時19分10秒
堕落した祭司エリ
旧約聖書サムエルT4章は、祭司エリの最後を語られています。「イスラエルはペリシテ人の前から逃げ、民のうちに打たれた者が多く出ました。それにあなたのふたりの息子、ホフニとピネハスも死に、神の箱は奪われました。」という知らせを聞いたエリは、その席から門のそばにあおむけに落ち、首を折って死にました。
聖書は、祭司エリは年寄りで、体が重かったからであると言っています。彼の嫁、ピネハスの妻はみごもっていて、出産間近でありましたが、しゅうとと、夫が死んだという知らせを聞いたとき、陣痛が起こり、身をかがめて子を産んだ後、死んでしまいました。彼女は、「栄光がイスラエルから去った。」と言って、その子を イ・カボデと名づけました。
サムエルTを読んでみると、エリが祭司としていた当時の神の天幕は、とても暗くて、汚れた罪でいっぱいでした。祭司エリのふたり息子ホフニとピネハスは、尊い祭司の息子として育てられたため、皆にかわいがってもらい、愛されただけで、一度も自分自身を抑えたり、心を折ったりしたことがありませんでした。
ホフニとピネハスはそのように育ちました。成長した彼らは祭司として天幕で勤めながらも、一度も彼らの心を折ったり抑えたりしたことがなかったので、彼らには心から起こる欲を抑える力が全くありませんでした。そのため彼らは欲に従い、天幕の入口で仕えている女たちと寝たり、いけにえとして捧げる肉を、前もって取ったりする悪いことをしました。その 謔、なことにより神の天幕の中は、罪悪とやみであふれてしまいました。
それでも神は、エリと彼のふたり息子ホフニとピネハスを愛され、神の人を送り、エリの家の悪を叱られ、呪いを予告されました。サムエルT3章には、神が夜中、サムエルに現われ、エリの家について呪いと滅びを告げられました。それでも、エリは心を立ち返りませんでした。
エリが悪であるのは、彼が人の物を盗んだとか、姦淫をしたとか、殺人をしたからではありません。聖書には、彼がそのような罪を犯したとは全く書かれていません。エリの悪は、祭司の位置にいながらも、イスラエルの民たちや自分の息子ホフニとピネハスを神の方に導くことができなかったことです。
私は牧師として、祭司エリに関する話を読むと、とても大きな衝撃を受け、呵責を感じます。祭司エリは、罪を犯す彼の息子たちに、「子たちよ。そういうことしてはいけない。私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。
人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」と言って、そういうことをしてはいけないと訓戒しただけで、彼らを神の方に導いてあげることはできませんでした。
ホフニとピネハスは、激しい肉の欲望と情欲の川に流されていた、かわいそうな人でした。欲望と情欲という激しい川に流されている彼らに、「子たちよ。そういうことをしてはいけない。そういうことするのは良くない。」という訓戒は、彼らを罪悪の川から引き上げられません。
神のしもべたちが堕落するとき、彼らの心が神を信じる信仰より、道徳的や良心的な面に変わってしまいます。罪を犯す私たちに道徳や良心が、「罪を犯してはいけない。」と言ってくれるからといって、罪から逃れられる人はひとりもいません。
なぜなら、罪が私たちを捕えるとき、私たちの中には罪や誘惑に勝つ力が全くないからです。祭司エリは、ホフニとピネハスが罪悪に流されたとき、生きておられる神を求め、息子たちを神の殿に連れて行って御言葉を伝え、神の力が息子たちの中に臨まれ、その力によって罪から逃れるようにしてあげなければなりませんでした。しかし、祭司エリは霊的な導き者でありながら、神から与えられる力を受け、彼らによって罪や悪に勝つように導いてあげることができませんでした。
聖書に生きておられるイエス・キリスト
宗教指導者たちが堕落するとき、起 アる現状があります。姦淫したり、人の物を盗んだり、自分の財産を蓄えたりすることが、宗教指導者の堕落を示すのではありません。宗教指導者が堕落すると、自分が導く聖徒一人一人を神と繋げてあげられないのです。
私たちは神から与えられる力と能力を受け入れるときこそ、罪や誘惑に勝ち、私たちがぶつかるすべてのことを、神が解決して下さるのを経験します。ところが、堕落した宗教指導者はただ、「罪を犯さないで下さい。盗んではなりません。お互いに愛しなさい。」という訓戒を言うだけです。
聖書を間違って理解している人々は、聖書の中には良い御言葉と訓戒が書かれていると思うのです。ですから、聖書の御言葉に従って生きれば、真実で清く生きることができると思っている人がよくいます。勿論、聖書の中には、神の訓戒と御言葉があります。
しかし、聖書の中に訓戒と御言葉だけが書いてあるならば、聖書は別に意味のない本でしょう。聖書の中には、「盗んではならない。姦淫してはならない。このようにしなさい。」という訓戒の御言葉もありますが、その御言葉は訓戒だけで済まないのです。
箴言にはたくさんの訓戒がありますが、箴言を良く読んでみると、神の知恵と訓戒と悟りのことばがあります。その知恵、訓戒、悟りのことばは、イエス・キリストを言い表しているのです。聖書の中には、訓戒があるだけではなく、神が生きて働かれるのです。
ですから、聖書が言われることは、何かの訓戒を受け入れ、その訓戒の通りに真面目に生きなさいということではありません。イエス・キリストの力が私たちの中に臨まれ、その力が私たちを罪から救い出し、清く生きるようにして下さるのです。
士師記15章を見ると、サムソンがペリシテ人たちに捕まえたとき、二本の新しい綱でしっかり縛られ、動けない状態でした。ペリシテ人は大声をあげて彼に近づいたとき、主の霊が激しく彼の上に下り、彼の腕にかかっていた綱は火のついた亜麻糸のようになり、そのなわめが手から解け落ちました。
神の力がサムソンの上に下り、神がサムソンとともにおられるからそのような働きが起こったのです。神がともにおられなかったときは、サムソンはその綱を切る力がありませんでした。主の霊の力が下ったことにより、その綱が簡単に解け落ちたのです。それと同様に、主の力が私たちの上に下ると、私たちを罪悪の中に引っぱる力がなくなります。
私たちを縛って罪悪の中に引っぱる淫乱で汚れた神に逆らうようにさせる悪な力がありますが、「そういうことをしてはいけない、それは悪いことだ。神に仕えなさい。」という訓戒の言葉だけで、その力に勝つことは無理です。
そのような言葉は、教訓的な言葉に過ぎないからです。私たちがそういう訓戒を受け入れ、罪を犯さないようにいくら頑張っても、私たちより罪の力が強いので、私たちは罪に引っぱられるほかありません。
ヨハネ8章を見ると、姦淫の現場で捕えられた女が、律法学者たちとパリサイ人たちに連れられ、石を投げられ殺される位置に行っていました。姦淫をした女は姦淫をさせる淫乱な心に引っぱられ、自分としてはその淫乱な心に勝つ力がありませんでした。
ですから、その女は律法学者たちとパリサイ人たちに連れられ、死の道に行っていたのです。その女は姦淫をして現場で捕えられたものの、石を投げられ殺されるために連れられることは嫌だったのでしょう。
彼女が連れられたくなくても連れられるしかなかったのは、その気持ちよりもっと強い力が彼女を引っぱっていたからです。連れられて行くうちに、イエスに出会いました。驚くべきことは、イエスはその女を引っぱっているすべての力から彼女を解放させました。主は、彼女に真の自由を与えて下さったのです。
姦淫をした女が淫乱な心に引っぱられて行くとき、イエスが来られて、「あなた、引っぱられてはいけません。引っぱられると殺されてしまう。」と言われたからといって、その女が引っぱられないのではないように、ホフニとピネハスを罪悪に引っぱる力が余りにも強くて、彼ら自らはそこから絶対に逃れられませんでした。
祭司エリは、そのようなホフニとピネハスに、生きておられる神を紹介し、神が彼らの中に入り、罪悪から逃れるようにしてあげなければなりませんでした。ところが、祭司エリはホフニとピネハスに、神の力を話して神によって逃れるようにしてあげず、ただ、「子たちよ。そういうことしてはいけない。私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。」と勧めただけでした。
神の働き
最近、私たちの教会に、救われたと言うものの、救いの確信がない人が数人いることに気づきました。先週の主日の朝、「神よ。もし、私たちの教会に来て御言葉を聞き、救われたつもりでも救いの確信がない人がいれば、そういう人を現わし、一人残らず救いの確信を持って信仰で生きるようにして下さい。」と切なる心で主に祈りました。
私たちの教会に来て福音を聞いて救われたと言うものの、真に救われていない人々は、『これが救われたことなのか』と思い、イエスが自分の罪を赦して下さったという話を聞いただけで、自分も救われたと思いやすいのです。
『そういう状態のまま、最後の日に地獄に落ちてしまうと、どんなにかわいそうだろう!』と思い、神の前で、「神よ。私たちの教会に兄弟姉妹たちが多数いますが、たくさんいる中で、もし一人でも罪の赦しを理論として知っていて、心に確信がないまま救われたつもりでいる人がいれば、そういう人を現わし、生まれ変わるように導いて下さい。」と切なる心で祈りました。
主日の午前の礼拝を終えてから、兄弟姉妹たちと挨拶をし、兄弟姉妹たちの話を聞いたり、交わりをしました。午後2時頃、お昼食を食べに行こうとすると、一人の兄弟が、「牧師先生。私たちの区域にいる一人のおばあさんが、是非、牧師先生に会いたがっていますが。」と言いました。
そして、そのおばあさんを連れて来ました。その人は、「牧師先生。私は救われていません。私は福音を何度も聞いているので、頭では知っていますが、私の心には救いの確信がありません。ですから、今日は是非、牧師先生に会いたかったのです。」と言いました。
その人は、自分が救われたつもりでしたが、よく考えてみると救われていないことに気づき、『地獄に落ちてしまうとどうしよう。』と苦しみ、『今日は絶対に牧師先生に会って、この問題を解決しよう。』という気持ちで私を訪ねて来たのです。
私はその人に詳しく信仰相談をしてあげました。「救われたと思っていたときは、どうしてそのように思い、どのようにして救われていないことに気づきましたか?」と聞きながら御言葉を伝えました。神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。「コリントT5:19)という御言葉を読み、違反行為の責めを人々に負わせないでという御言葉を詳しく説明してあげました。
私たちは確かに罪を犯したし、犯しているのに、その罪の責めを人々に負わせないと、罪の責めが私たちに来ないで、イエス・キリストに行くことを詳しく説明しました。
その人は御言葉を聞くうちに、「私はただイエスが十字架に釘づけになり、私の罪が赦されたと思っていましたが、私の罪の責めをイエスが負って下さったため、私が犯した罪の罰をイエスが代わりに受けたのですね!」と言って、心に信仰を持ちました。
そして、とても喜び ネがら、「牧師先生。もう大丈夫です。そのことを知りませんでした。」と言い、いっしょに祈ってから別れました。
主に感謝するのは、神が私たちを使われるとき、私たちの良い行為、私たちの正しさ、誠実さに期待しないことです。私は、神の福音のために働きながらも、いつも誠実ではありません。
数十年の間、主に仕えながら過ちを犯すこともよくあり、時々犯罪を犯すときもあり、神がご覧になるとき、数え切れない恥じがあります。しかし、神は私の義や誠実さと良い行いをご覧になってから、私に働いて下さるのではなく、私の中におられる主をご覧になって働かれるのです。
私がそのおばあさんに御言葉を伝えるうち、その人が救われる働きが起こったのは、私が誠実で優れた者で清いからではなく、私は何の取りえもない者ですが、私とは関係なく神が働かれたため、その人が救いの確信を持ち、罪から逃れた人生を歩むのです。
祭司であるキリスト
私は、祭司エリについて読みながら、自分の姿が祭司エリと同じだろうと思うときがよくあります。『福音を伝えなければならないのに、私自身が不足で軟弱だから、神が働いて下さるのだろうか。神が助けて下さるのだろうか。』という気持ちをサタンが私の心に常に入れました。
祭司エリの人生が完全ではなかったとしても、ある日、サムエルの母ハンナが祈ったとき、彼が言った通りに、主がハンナに子供を授ける働きもありました。私たちが完全でイエスのように完璧であるとき、神が私たちに働かれるのではなく、私たちは不足で軟弱でも、神は私たちをご覧にならず、イエス・キリストをご覧になって私たちを受け入れます。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。…(ガラテヤ2:20)
私たちが見るときは確かに私自身が生きていて、イエスが生きておられないのに、使徒パウロは、「私が生きているのではなく」と言いました。使徒パウロが言ったのは、神の目で見て言ったのです。
確かに自分自身が生きているようですが、神がご覧になるときは、私が生きているのではなく、もはや私は死んでいなくなり、私のうちにキリストが生きておられるのです。私のうちにキリストが生きておられ、私は死んでいなければ、神は私のうちでどれほど自由に働かれるのでしょう。神の御言葉に、私は死んで私のうちにキリストが生きておられると言われました。
たとえ、祭司エリが外見が汚れ、軟弱で不足ですが、彼のうちに神が生きておられるならば、二人の息子ホフニとピネハスに神の御言葉を伝えたとき、彼らに神が働かれたはずです。神は、ホフニとピネハスが汚れた罪から逃れ、清い人生を歩むように導いて下さったはずです。
しかし、祭司エリは二人の息子に、「そういうことをしてはいけない。」と叱っただけで、彼らのうちにある汚れた情欲と欲望に勝つような神の力を入れてあげることはできませんでした。
この御言葉を読みながら、『私もほんとうに祭司エリと同じであるときが多かった!私はとても鈍かった!私は愚かだった!』と思い、とても恥ずかしいのです。
そして、『私が偉くて賢くて真実な者だから、神が私のうちで働かれるのではない。私は死に、私のうちにキリストが生きておられるから、神はそのキリストをご覧になって私に働いて下さり、私が行うすべてのことにともにおられる。』ということを心から信じるようになりました。そして、一人一人にイエス・キリストを証し、そのたびに私とは関係なく神が働かれ、人々が救われ、変化を受ける尊い働きを経験することができました。
祭司エリが悪であったのは、彼が人の物を盗んだり、姦淫したり、酒に酔ったり、欲があったからではありません。愛する自分の息子たちに神を紹介せず、神によって罪に勝つ信仰を植えつけることができなかったことです。ただ、「そういうことをしてはいけない。」と勧めることで済ませたエリの姿を見ると、とてもかわいそうです。
私たちが救われたキリスト人であるならば、私たちも祭司なのです。聖書は、イエス・キリストの血によって生まれ変わったあなたがたは、王のような祭司であると言いました。ところが、祭司である私たちは多くの人々の前に出て、私たちが彼らを救うのではありません。
私自身が人々を救うためには、自分が誠実で真実でイエスのようにならなければなりませんが、私は主が使われる道具に過ぎないだけです。私は死に、私のうちにキリストが生きておられるので、伝道をするとき、主が働かれるという信仰を持って、人々に生まれ変わる福音を伝えると、神が働かれます。
祭司エリは、『私は何の取りえもない者だから、神が働いて下さらないだろう。私には神の力が現われないだろう。』という気持ちを持っていました。ですから息子たちに、「そういうことをしてはいけない。」と言うだけで、御言葉を伝えて彼らに罪に勝つ力を入れてあげることができませんでした。
姦淫した女が連れられたとき、そこから解いてあげられる方はイエス・キリストだけで、サムソンが縛られたときも、それを解いてあげられる方も、ラザロが死に縛られているときも、そこから解放させられる方も主だけです。
今日も罪悪の中に陥って行く私たちを救って下さる方も主だけです。私たちの周りには、死んで行く多くの人々と、罪に縛られている人々がいます。そのすべての人々に主を紹介して、主が彼らのうちに入り、罪に勝つように証すことが、まさに今どきの祭司であるキリスト人たちがすべきことです。
今どきのキリスト人たちは、そういうことを信じられず、祭司エリのように真面目に生きなさい、罪を犯してはいけないと言うだけで済ませるならば、そのうちに生きておられるキリストの価値がないでしょう。私たちは祭司エリのようにならないで、神の御言葉を伝え、罪を犯し、淫乱と欲望に縛られ、流されている多くの人々が、イエスの力を受け、そこから逃れ、呪われることなく、幸いな人生を歩むように導く神のしもべになることを願っています。
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御言葉をいっぱい乗せています。